伝記
ロニー・ジェイムス・ディオは、本名をロナルド・ジェームズ・パダヴォナといい、1942年7月10日、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスに生まれたロックの歌手である。両親は、ニューヨーク州コートランド出身のイタリア系アメリカ人パトリックとアンナで、一家は、父の第二次世界大戦中の軍務のためにポーツマスに住んだが、まもなくコートランドに戻った。育つ間に膨大な量のオペラを聴き、アメリカ人のテノール歌手マリオ・ランツァから声の面で影響を受けた。5歳でトランペットの訓練を始め、のちに「絶対音感のヴォーカリスト」と称された音程の正確さは、このトランペットの素地によるとされる。歌の訓練は受けたことがなく、歌唱力は、トランペットで身につけた呼吸法のおかげだと本人は語っていた。音楽のほかに、ウォルター・スコットらの恋愛ファンタジー文学やアーサー王伝説、空想科学小説、スポーツを好んだ。
高校時代の1957年にバンドを結成し、ボーカルとベースを兼ねた。バンドの名は何度か変わり、1958年には「ロニー・アンド・ザ・レッド・キャップス」となって、シングルを制作した。1960年にコートランド高校を卒業し、ジュリアード音楽院から奨学金を提示されたと伝えられるが、ロックへの関心から受けなかった。ニューヨーク州立大学バッファロー校で薬理学を専攻したものの、在籍は1960年から1961年だけで、卒業しなかった。芸名の「ディオ」はイタリア語で神を意味する。祖母が、神から授かった贈り物があるのだから「ディオ」と呼ぶべきだと言ったという説と、マフィアの一員ジョニー・ディオに由来するという説があり、後者は本人の自伝で確認されている。1960年にバンドの録音で初めてこの名を使い、バンドは「ロニー・ディオ・アンド・ザ・プロフェッツ」と改称して、ニューヨーク州各地の大学のパーティーなどで演奏した。1967年に「エルフ」を結成し、歌とベースを担当して、ディープ・パープルの前座を務めた。
1975年、ディープ・パープルのギタリスト、リッチー・ブラックモアが「レインボー」を結成すると、見出されて主要メンバーとなり、3枚のスタジオ・アルバムを残した。ハード・ロックの代表的な歌手の一人としての地位を築いた。1978年末にレインボーを去り、1979年にオジー・オズボーンに代わって「ブラック・サバス」の歌手となった。『ヘヴン&ヘル』(1980年)、『悪魔の掟』(1981年)と、成功した作品を発表した。1982年に脱退して「ディオ」を結成し、2枚のアルバムがプラチナ認定を受けた。1986年には、ディオのメンバーを中心に、アフリカの飢餓救済のチャリティ・プロジェクトを組み、多くのヘヴィメタルの音楽家を迎えて、アルバム『スターズ』を制作した。1991年にブラック・サバスに復帰したが、翌年に再び脱退した。2006年には、かつてのサバスの仲間トニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ヴィニー・アピスと「ヘヴン・アンド・ヘル」を結成し、2009年に初のアルバムを出した。声量があり、最晩年まで力強く歌った。演劇的な発声と、中世を題材にした歌詞が特徴で、悪魔の角を模した手の仕草「メロイックサイン」を、ヘヴィメタルの世界に広めた人物とされる。日本ではこぶしを効かせた歌い回しから「ヘヴィメタル界の北島三郎」と親しまれた。2009年11月、早期の胃癌と診断され、予定のツアーをすべて中止して闘病に入った。2010年5月16日、ヒューストンで亡くなった。67歳だった。
同じ年に亡くなった人物
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- フランコ・バッレリーニ (2010年没)
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