伝記
ジェームス・ワイト・ブラックは、1924年6月14日、スコットランドのラナークシャー、アディングストンで、バプテスト派の家の五人兄弟の四男として生まれた薬理学者である。父ウォルターは鉱山技師、母はキャサリン・リード・ホワイトといった。ファイフ州で育ち、コーデンビースのビース高校で学び、15歳のとき、家が貧しく大学に行かせられなかったが、数学の教師に勧められて受けた入学試験に合格し、奨学金を得てセント・アンドルーズ大学に進んだ。1943年にユニバーシティ・カレッジ(のちのダンディー大学)に入り、1946年にセント・アンドルーズ大学の医学部を卒業した。卒業後は、同じ学校の生理学科で助講師を務めたのち、現在のマラヤ大学の前身にあたるシンガポールの医学校で、3年間講師を務めた。大学を出たときに多額の借金があったためで、患者を無神経に扱う当時の医療に反発して、臨床医になる道は選ばなかった。
1950年にロンドンに移り、さらにグラスゴー大学獣医学校へ移って、獣医生理学科を創設した。ここで、アドレナリンが人の心臓、特に狭心症の患者にどう影響するかに関心を持った。アドレナリンの作用を打ち消す方法の理論を立てて、1958年に英国のICIに入り、1964年までの間に、アドレナリンのベータ受容体の遮断薬プロプラノロールを発明した。これはのちに世界で最も売れた薬になり、強心剤ジギタリスの発見以来の、心臓病の治療の最大の突破口と称えられた。ブラックは、薬の分子をまず合成して用途を調べるのではなく、目的に合わせて意図的に組み立てるという研究方法の先駆者であった。プロプラノロールの発明は狭心症の治療に革命をもたらし、20世紀の臨床医学と薬理学への最も重要な寄与の一つとされる。
同じころ、胃潰瘍の薬も同じ方法で作ろうとしていたが、ICIはこの考えを進めたがらなかったので、1964年に退社して、スミスクライン・アンド・フレンチ社に移った。ここで9年間働き、2番目の主要な薬であるシメチジンを開発した。1975年に発売されたシメチジンは、すぐにプロプラノロールを上回って世界で最も売れる処方薬となり、胃潰瘍や十二指腸潰瘍の治療に革命的な変化をもたらした。標的の分子を特定し、それに選択的な低分子の阻害薬を作るという現代の創薬の先駆けでもあった。1973年にロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの薬理学の教授となり、1978年にウェルカム研究所の治療研究部長、1984年からはキングス・カレッジ・ロンドンの教授を1992年まで務めた。1988年には、ジェームズ・ブラック財団を設立した。
これらの業績により、1988年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。1976年に王立協会フェローとラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞、1979年にガードナー国際賞、1981年にナイト爵、1982年にウルフ賞医学部門、1983年にシェーレ賞、2000年にメリット勲章、2004年にロイヤル・メダルを受けた。メリット勲章は、君主が授与できるもので最も名誉あるものとされ、同時に生存する受章者は24人に限られる。ダンディー大学の総長も務め、2010年3月22日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- アンドール・リリエンタール (2010年没)
- フランク・カーモード (2010年没)
- オルランド・ペサーニャ・デ・カルヴァーリョ (2010年没)
- 郷里大輔 (2010年没)
- ピーター・グレイブス (2010年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョン・ブロウ (1708年没)
- ハンフリー・サール (1982年没)
- カナーン・バナナ (2003年没)
- ラリー・アドラー (2001年没)