伝記
リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルックは、1941年4月24日にニューヨーク市マンハッタンで、医師の父ダンと陶芸家の母トゥルーディの長男として生まれたアメリカの外交官である。両親はいずれもユダヤ人移民で、父はワルシャワで生まれて1930年代にアメリカへ渡った際にホルブルックの姓を名乗るようになり、母はハンブルクに住んでいたが1933年にブエノスアイレスへ亡命したのちニューヨークに来た。両親は無神論者で、ユダヤ式の教育は施さず、母は毎週日曜日にクエーカー教徒の集会へ彼を連れて行ったという。15歳のときに父が癌で亡くなったが学業を続け、授業料全額免除の奨学金を得てブラウン大学に入り、1962年に学士号を得た。高校時代には学内新聞の編集部にいて、編集長だったディーン・ラスクの息子デイヴィッドと親友になり、そこから父親のラスクと知り合った。ラスクはのちにケネディ政権とジョンソン政権で国務長官を務め、ホルブルックの将来に大きな影響を与えたとされる。
大学卒業後まもなく国務省に入り、一年間のベトナム語研修を受けて、通算6年間ベトナム問題に取り組んだ。ケネディ大統領に触発され、また「外交官はどんな仕事よりも価値がある」というラスクの言葉もあって、この道を選んだという。当初はメコンデルタに派遣されて経済開発や地方政治改革を支援し、その後サイゴンの大使館でテイラー大使とロッジ大使の補佐官を務めた。1966年、ジョンソン大統領がホワイトハウスにベトナム問題の専門家による特命チームを設けた際には、24歳で参加を打診されて帰国し、これに加わった。その後は国務次官の特別補佐官を務め、1968年にパリで始まったベトナムとの秘密和平交渉の代表団に加わったほか、のちにペンタゴン・ペーパーズとして知られる秘密報告書の作成にも携わった。国務省を離れてプリンストン大学のフェローを一年務めたのち、1970年に平和部隊の現地責任者としてモロッコに赴任し、1972年までとどまった。帰国後は1976年まで外交専門誌『フォーリン・ポリシー』の編集長を務めた。
1976年にはジミー・カーターの選挙陣営に加わって国家安全保障政策を担当し、ディベートの準備などで補佐した。カーター政権では東アジア・太平洋担当国務次官補となり、1977年3月から1981年1月まで在任した。35歳での就任は、同職の前身の設置以来最年少だった。ヴァンス国務長官の主要な助言者として、1978年12月の中華人民共和国との国交樹立で主導的な役割を担い、インドシナ難民の問題にも取り組んだ。1977年8月にはインドネシアでスハルト大統領と会談したが、東ティモールでの弾圧に対する姿勢をめぐっては、その訪問を批判する声もある。
政権を離れたのちはリーマン・ブラザーズの上級顧問となり、1985年から1993年まで常務取締役を務めた。1991年にはクラーク・クリフォードの回顧録の共著者にもなった。1988年にはアル・ゴアの、1992年にはビル・クリントンのアドバイザーを務め、同年にはボスニアを二度訪れて、紛争の激化に警鐘を鳴らした。クリントン政権ではドイツ大使、ヨーロッパ・カナダ担当国務次官補、国連大使を歴任し、次官補在任中はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の和平交渉で主導的な役割を担い、1995年のデイトン合意の立役者の一人として知られる。2009年にはオバマ政権でアフガニスタン・パキスタン問題担当特使となり、2010年12月13日、特使在任のまま病気のため死去した。
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