伝記
ロペ・デ・ベガは、1562年11月25日、マドリードに生まれた。本名はフェリクス・ロペ・デ・ベガ・イ・カルピオという。父フェリクスは刺繍職人、母フランシスカは5人兄弟の3番目であった。父はバリャドリードでの短い滞在ののち、新しい首都の可能性に引かれたのか、1561年にマドリードへ移っている。神童であったといい、友人で伝記作者のペレス・デ・モンタルバンによれば、5歳のときにはすでにスペイン語とラテン語を読んでいた。まだ字が書けないうちから、年上の少年たちに朝食を分け与えるかわりに、自分の詩を書いてもらったという話もある。12歳で4幕の戯曲を書いたと伝えられるが、これは誇張とみられている。詩人で音楽家のビセンテ・エスピネルの学校で学び、のちには敬意をもってその名を挙げている。
その後はマドリードのイエズス会の学院に学び、イエズス会劇の影響を受けた。のちに司教ヘロニモ・マンリケの庇護を受けてアルカラ・デ・エナーレス大学に進み、1582年まで学んだ。聖職に就くつもりでいたが、恋に落ちて独身生活は自分に向かないと悟り、学位は取れなかった。その後は貴族の秘書を務め、あるいは戯曲を書いて暮らした。現存する最初の戯曲『ガルシラソの偉業』は1579年に書かれた。1583年にはスペイン艦隊に加わり、アゾレス諸島のポンタ・デルガダの戦いに参加している。
同じ1583年、20歳になったばかりのベガは、女優でありすでに人妻であったエレナ・オソリナと恋に落ちた。彼女は、当時ベガが台本を書いていた劇団の座長の娘であった。恋の対象を作品に登場させるのが常で、オソリナは詩の中にフィリスの名で現れ、晩年の『ラ・ドロテア』では主人公ドロテアとして若き日の美貌を伝えている。数年に及ぶ激しい関係ののち、彼女がほかの求婚者に心を移してベガを退けると、ベガは彼女とその一家を辛辣に攻撃した。これが原因で名誉毀損により投獄され、8年間の宮廷追放と2年間のカスティーリャ追放の刑を受けた。
追放を受けたベガは、宮廷画家の娘であった16歳のイサベル・デ・ウルビーナを連れ出し、家族からの圧力のもと、1588年5月10日に結婚した。数週間後の5月29日には、無敵艦隊の遠征のため艦隊に志願し、アルマダの海戦には一兵士として従軍した。乗った船は失敗に終わった遠征のあと無事に帰り着き、同年12月にはスペインへ戻って、バレンシアに滞在した。そこでイサベルとともに暮らし、劇作家たちの集まりに通いながら、自らの戯曲の形式を磨いていった。
1,500から2,500の戯曲を書いたといわれるが、現在まで残っているのは425である。17世紀に入るころにはスペイン最高の劇作家と認められ、その作品は王家や貴族から庶民にまで広く愛された。代表作に『オルメードの騎士』『農場の番犬』『フエンテ・オベフーナ』がある。セルバンテスは彼を「才能の不死鳥」「自然の怪物」と呼んだ。作家ケベードとは親しく、劇作家ルイス・デ・アラルコンとは宿敵であったという。膨大な作品の量は同時代人の妬みを買った一方で、ゲーテは幅広く多彩な作品群に賛嘆を寄せた。詩人としても3,000のソネットのほか、長編の叙事詩などを残したとされる。1635年8月27日に没した。
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