HISTORICAL PERSON · 2011年没

金正日

北朝鮮の第2代最高指導者。金日成の長男で、父の死後に事実上の最高指導者となり、2011年に死去するまで国防委員会委員長などを務めた。

生涯
2011年没
死亡地
朝鮮民主主義人民共和国(平壌市)
出生地
ロシア連邦(ヴャツコエ)
出典
世界地図
朝鮮民主主義人民共和国(平壌市)

伝記

金正日は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の第2代最高指導者で、建国者である金日成の長男である。1941年2月16日に極東地方で生まれたとする説が有力で、当時の父は、抗日パルチザンの東北抗日聯軍を経て、ソ連軍の下にあった第88独立狙撃旅団の第1大隊長であった。出生地はハバロフスク近郊やウラジオストク近郊などの諸説があり、幼名は「ユーラ」で、ロシア人名のユーリイに由来し、ソ連出生説の根拠の一つとされる。一方、北朝鮮側は、金日成と生まれ年を30年周期でそろえて神格化するため、1942年2月16日に白頭山の密営で生まれたと発表している。

1945年11月、母の金正淑や弟とともにソ連から海路で帰国し、平壌で父のもとに落ち着いた。1947年に弟を事故で、1949年に母を前置胎盤で亡くした。幼いころは内向的でひねくれたところがあったという。朝鮮戦争が始まると疎開し、1950年11月には中国へ逃れて吉林市で暮らした。その後、北朝鮮に帰国して学校を卒業し、1960年に金日成総合大学の経済学部に入り、1961年に朝鮮労働党へ入党、1964年に大学を卒業して党中央委員会に勤務した。党組織指導部の指導員から出発して昇進を重ね、1969年に同部の部長となり、宣伝扇動部や文化芸術部の仕事も兼ねた。

1973年に党中央委員会書記に選ばれ、1974年2月には政治委員会委員となって、金日成の後継者に「推戴」された。この発表は対外的には公表されなかった。後継者争いでは叔父の金英柱と争い、パルチザン派の支持を得て勝ち、講習会の場で叔父を「反党分子」と批判して、父への個人崇拝を強める「党の唯一思想体系確立の10大原則」をつくった。1970年代後半にはポプラ事件や、横田めぐみ拉致事件、崔銀姫拉致事件が起こっており、資料はこれらを後継者としての実績づくりを急いだ金正日の指示によるものだった可能性が高いとみている。1976年には対南工作の会議で外国人の拉致を指令したとされる。異母弟の金平一を推す義母の金聖愛との間にも、権力闘争があったといわれる。

1980年の第6回党大会で政治局常務委員、書記、中央軍事委員会委員となり、初めて公式に国民の前に姿を現して、後継者の地位を固めた。1980年代にはラングーン事件や大韓航空機爆破事件などのテロ事件が起こったが、資料はいずれも父や長老の歓心を買うために引き起こされたものと考えられるとしている。1983年に初めて外遊した中国では、改革開放を修正主義だと批判して鄧小平の反感を買ったという。1990年に国防委員会の第一副委員長となり、1991年に朝鮮人民軍最高司令官、1992年に元帥の称号を受け、1993年には国防委員会委員長に選ばれて軍の統帥権を握った。

1994年7月8日に金日成が急死すると、国家主席の地位は継がなかったものの、この日から事実上の最高指導者として統治を始めた。1997年10月に党の総書記に就任し、1998年には改めて国防委員会委員長に選ばれて、同職は「国家の最高職責」とされた。経済の失敗による「苦難の行軍」の時期に、義弟の張成沢らを使って古参幹部とその親族を大規模に粛清し、軍を優先する「先軍政治」を掲げた。2011年12月17日に死去し、死後に大元帥の称号を追贈された。

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