HISTORICAL PERSON · 2011年没

ノーマン・ラムゼー

アメリカの物理学者。原子時計に必要なラムゼー共鳴法を開発して水素メーザーに応用し、1989年にノーベル物理学賞を共同受賞した。戦時中はロスアラモスで原爆開発にも関わった。

生涯
2011年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ウェイランド)
出生地
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ノーマン・フォスター・ラムゼー・ジュニアは、1915年8月27日にワシントンD.C.で、母ミンナ・バウアーと父ノーマン・フォスター・ラムゼーの子として生まれたアメリカの物理学者である。母はドイツ系移民の娘で、カンザス大学の講師だった。父はスコットランド系で、陸軍士官学校を1905年に卒業した兵器部門の将校であり、第二次世界大戦中には准将に昇進して、ロックアイランドの工廠を指揮した。軍人の子として基地から基地へ頻繁に引っ越し、父が駐在武官の補佐を務めた時期にはフランスにも住んだ。学年を飛び級し、15歳でカンザス州のリーヴェンワース高校を卒業した。

両親は陸軍士官学校への進学を望んだが、15歳では若すぎた。カンザス大学の奨学金を得たものの、1930年に父がニューヨークのガバナーズ島に転任となったため、1931年にコロンビア大学に入り、工学を学び始めた。やがて数学に関心が移り、1935年に学士号を得るころには物理学に興味を持っていた。コロンビア大学のケレット奨学金でケンブリッジ大学へ留学し、キャヴェンディッシュ研究所でラザフォードやモーリス・ゴールドハーバーのもとで学んだ。量子力学を学ぶために数学優等試験を受け、第二の学士号も得ている。ゴールドハーバーの課題で磁気モーメントに関する論文を読んだことが、イジドール・イザーク・ラービの分子線の研究への関心につながった。コロンビア大学に戻ってラービの指導のもとで研究し、重陽子が磁気四重極子であることの発見をラービらと共有した。原子核は球形だとされていたが、そうではないという意味だった。1940年に物理学の博士号を取得し、ワシントンのカーネギー研究所の研究員となって、中性子と陽子の散乱、およびヘリウム原子核による中性子散乱を研究した。

1940年にエリノア・ジェイムソンと結婚し、イリノイ大学で教え始めたが、戦争が運命を変えた。ラービに誘われ、マサチューセッツ工科大学の放射線研究所に加わり、マイクロ波レーダーの開発に携わった。最初はラービの率いるマグネトロンの班にいて、ラービが部門長になると班長となった。1941年6月にはイギリスに赴き、マーク・オリファントと意見を交わして、部品も持ち帰って最終の設計に取り入れた。このレーダーを中心に夜間戦闘機が設計された。1943年にはオッペンハイマーらから頼まれて、ロスアラモスでマンハッタン計画に加わり、原子爆弾の開発に関わった。終戦後はコロンビア大学の教授に就いた。

1947年にハーバード大学に移り、1986年に退職するまで約40年間、物理学の教授を務めた。分離振動場の方法、すなわちラムゼー共鳴法を考案し、原子時計に欠かせない技術となり、その水素メーザーへの応用で、1989年にハンス・デーメルト、ヴォルフガング・パウルとともにノーベル物理学賞を受けた。北大西洋条約機構の事務総長の科学顧問や、原子力委員会などの要職を務め、エネルギー省傘下のブルックヘブン国立研究所とフェルミ国立加速器研究所の設立にも貢献した。1960年にアーネスト・ローレンス賞、1988年にエルステッド・メダルとアメリカ国家科学賞、1990年にディラック・メダル、1995年にヴァネヴァー・ブッシュ賞を受けた。2011年11月4日、マサチューセッツ州の介護施設で96歳で亡くなった。

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