伝記
ピーター・フォークは、1927年9月16日にニューヨーク市のブロンクス区で生まれ、同州ウェストチェスター郡のオシニングで育ったアメリカ合衆国の俳優である。父はロシア系、母はポーランド・チェコ・ハンガリー系のユダヤ人だった。3歳のとき右眼に網膜芽腫が見つかって眼球を摘出し、以後は生涯、義眼で過ごした。野球の試合で審判の判定に納得できず、自分の義眼を外して「お前の方が必要なんじゃないか」と抗議したという逸話が伝わっており、友達の前でも義眼を隠さず、むしろジョークにする人気者だったとされる。
10代のころから演劇に親しみ、12歳で舞台「ペンザンスの海賊」に出た。高校卒業後にハミルトン・カレッジへ進んだが、第二次世界大戦中は合衆国の商船に乗り組み、戦後に復学した。のちにニュースクール大学で学位を取り、シラキューズ大学の大学院で行政学の修士号を得て政府の予算局に勤めたものの、演劇への情熱を抑えられず、舞台の世界へ戻った。1950年代には舞台「ドンファン」などが好評で、オフ・ブロードウェイからブロードウェイへ進出した。1956年以降はテレビにも主演し、1958年には映画「エヴァグレイズを渡る風」で映画にも手を広げた。
頭角を現したのは1960年の「殺人会社」で、冷徹な殺し屋役が注目されてアカデミー助演男優賞にノミネートされた。翌1961年の「ポケット一杯の幸福」では一転してコミカルな役を演じ、同賞に2年連続で候補となった。この作品の撮影時、新進の舞台俳優だったフォークは役柄をめぐって製作側と対立し、「自分は演技者であり、コメディアンのような真似事はやらない」と主張したという。これに対しフランク・キャプラ監督は「シリアスにコミカルを演技すればいい」と語り、その一言が後年の名優を救ったといわれる。テレビでは「ディック・パウエル・ショー」の「トマトの値段」などで評価され、エミー賞の主演男優賞を生涯で5回受賞した。映画では1960年代から1970年代にかけてジョン・カサヴェテスと組み、「ハズバンズ」「こわれゆく女」などに主演した。
代表作の「刑事コロンボ」は1968年の第1作「殺人処方箋」に始まる。この作品はトーマス・ミッチェル主演の舞台劇のテレビドラマ化として計画されたが、コロンボ役のミッチェルがすでに亡くなっていたため、フォークが代役を務めて成功し、シリーズの続行が決まったという。1978年にいったん終了したのち、1989年から新シリーズが復活し、2003年の作品が最終作となった。全69作に及ぶ。世界各国で人気を博し、特にドイツでは視聴率が50パーセントを超えるほどだったとされ、ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」には本人役で出演している。日本ではサントリーやトヨタのコマーシャルにも登場した。
俳優業のかたわら画家としても活動し、静物画や肖像画を描いて、日本でも個展が開かれた。私生活では、1960年に大学の同級生だったアリスと結婚して養女2人をもうけたが、1976年に離婚し、1977年に女優のシーラ・ダニーズと再婚した。2008年に家族の後見申し立てによってアルツハイマー病であることが公表され、2011年6月23日、ビバリーヒルズの自宅で合併症により死去した。1991年にハリウッドのウォーク・オブ・フェームへの殿堂入りが決まっていたが、星形のプレートが埋め込まれる式典は、没後の2013年7月25日に行われた。
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