HISTORICAL PERSON · 2011年没

ジェーン・ラッセル

アメリカの女優で、1940年代から50年代を代表するグラマー女優。1940年にハワード・ヒューズ制作の映画『ならず者』のヒロインに選ばれた。

生涯
2011年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタ・マリア)
出生地
アメリカ合衆国(Bemidji)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ジェーン・ラッセルは、本名をアーネスティン・ジェーン・ジェラルディン・ラッセルといい、1921年6月21日にミネソタ州ビミジで生まれたアメリカ合衆国の女優、モデル、歌手である。1940年代から1950年代を代表するグラマー女優で、二十本を超える映画に主演した。四人の兄弟がおり、父は陸軍の中尉を務めた人物、母は巡業劇団の女優だったという。生まれて間もなく一家はカナダのエドモントンへ戻り、一、二年を過ごしたのち、南カリフォルニアに移った。サンフェルナンド・ヴァレーで育ち、母に勧められてピアノを習い、高校では舞台にも参加した。若いころはデザイナーを志していたが、四十代半ばだった父が亡くなると、高校卒業後は受付係として働き、写真家のモデルもして家計を助けた。母の勧めでマックス・ラインハルトの演劇ワークショップや、名女優マリア・ウスペンスカヤのもとで演技も学んだ。

1940年に、実業家ハワード・ヒューズが制作する映画『ならず者』のヒロインのオーディションに合格し、七年契約を結んだ。主人公がビリー・ザ・キッドなど西部の荒くれ者ばかりの作品で、野性的で肉感的なヒロイン像を描いていたヒューズの好みに合ったのである。映画は1941年に完成したが、胸元を強調した宣伝が製作倫理規定の検閲に触れて問題となり、1943年に限定公開されたのち、一般公開は1946年にずれ込んだ。この間、本人は宣伝活動に追われて全米に名が知られるようになり、第二次世界大戦中は兵士たちの間でピンナップ写真が人気を集めた。自伝によると、ヒューズが設計した特製のブラジャーは着け心地が悪く、こっそり捨てて、自分の下着にティッシュを詰めて着けたという。

1946年に『ヤング・ウィドウ』に出たが、予算を超過して興行は失敗した。1947年からは歌手としても活動し、ケイ・カイザーの楽団とラジオで歌い、レコードも吹き込んだ。1948年には、ボブ・ホープの相手役としてカラミティ・ジェーンを演じた『カラミティ・ジェーンの大銃撃戦』が大ヒットし、その年のパラマウント社の最大の成功作になった。のち20世紀フォックスと契約し、1953年にはマリリン・モンローと共演した『紳士は金髪がお好き』で、モンローと並ぶ圧倒的な人気を得た。撮影中、ゴシップ誌は二人の不仲を望んだが、実際には大変仲が良く、気っぷの良いラッセルが内気で神経過敏なモンローをかばい、取材の防御役を務めたという。ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターの前庭には、二人の手形と足形が並んで残されている。その後も『フランス航路』『海底の黄金』『たくましき男たち』などに出演し、のちには再び音楽活動へも戻った。

私生活では三度結婚している。最初の夫は幼なじみでアメリカンフットボール選手のロバート・ウォーターフィールドで、二度目、三度目の夫とは死別するまで連れ添った。同時代のグラマー女優に比べればスキャンダルは少なかった。熱心なキリスト教徒で、三人の子を養子にし、1955年には最初の国際養子縁組の支援団体「ウェイフ」を設立した。作品が検閲にたびたび引っかかっても、本人はいたって陽気で、肉体は隠すから汚くなる、太陽の下でさらすほど美しくなると言って意に介さなかったとされる。また、プレイボーイとして知られたヒューズに見いだされながらその手を逃れたのは奇跡と言われ、本人によれば、酔って寝ていた自分に手を出そうとした彼を一喝すると、何もせず引き下がったという。2011年2月28日、呼吸不全のため、カリフォルニア州サンタマリアの自宅で死去した。

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