伝記
ムラト4世は、オスマン帝国の第17代皇帝(在位1623年〜1640年)である。1612年7月27日、アフメト1世と、その夫人キョセム・スルタンの間に生まれた。オスマン2世の弟、イブラヒムの兄にあたる。5歳のときに父が亡くなり、叔父のムスタファ1世と兄オスマン2世の短い治世を経て、1623年、ムスタファ1世の退位を受けて即位した。即位したときにはまだ割礼を受けておらず、その5日後に受けたという。頭脳明晰で勇敢、腕力にも優れ、片手で重い鎚矛を振り回し、戦いでは両手持ちの大きな長刀を振るったと、従軍日記が伝える。
即位した当初、オスマン帝国はエジプトやシリアなど各地の反乱を抱え、ルメリやアナトリアでも反乱が起きていた。アナトリアの反乱はブルサやアンカラにまで広がり、1628年にアバザ・メフメト・パシャをボスニア州の知事にすることで鎮められた。東方では、1623年にイラクのイェニチェリ部隊が反乱を起こしてサファヴィー朝のアッバース1世の侵攻を招き、翌年にバグダードを奪われた。治世の前半は母后キョセムが実権を握ったが、腐敗が横行し、財政は破綻に瀕していた。母后の摂政を退けて親政に移る契機となったのは、1632年に世襲騎兵シパーヒーとイェニチェリが、宰相トパル・パシャにあおられて皇帝の側近を殺し、大宰相らの処刑と皇帝の退位まで要求してイスタンブールで起こした動乱である。首謀者のトパルが大宰相に任じられると、皇帝はその直後にトパルの館を襲撃して自ら処刑し、大量のシパーヒー、イェニチェリ、行政官を処刑して乱を鎮め、御前会議で忠誠を誓わせた。
親政を始めると、汚職や賄賂の蔓延を改めようと、元凶とみなした酒場、コーヒー店、タバコ屋の営業を禁じた。この社会規律の強化は、厳格派のカドゥザーデ派の力を借りたものであった。1633年にイスタンブールで火災が起きて市街の五分の一が焼けると、原因がタバコの燃えかすとされ、喫煙は厳禁となった。発覚すれば処刑されたといい、コーヒーの禁止も、カフェで反乱が企てられるのを防ぐためと言われる。皇帝は変装して市内を巡回したと伝えられる。一方で、実情に合わなくなっていた税制を改めて財政を立て直し、軍制の革新にも寄与した。しかし極めて短気で、政府高官や法学者、弟を数名処刑するなど、残忍な行いも多かった。1634年には、ブルサへ向かう道が整備されていないという理由でイズニクの知事を処刑し、これを批判したイスラム長老アヒザーデ・ヒュセインを、キプロスへ追放する途中の船で絞殺させた。
サファヴィー朝との戦いでは、1625年と1629年のバグダード攻撃が失敗に終わったが、1635年にはエレヴァンを征服し、これを記念する東屋がトプカプ宮殿に建てられた。この勝利ののち、弟のバヤズィトとスレイマンを処刑している。エレヴァンは翌年に奪還されたが、1638年には自らイラクへ親征し、40日間の包囲の末、12月25日にバグダードを陥落させた。新しい大宰相が和平交渉を始め、サファヴィー朝のサフィー1世とカスレ・シーリーン条約を結んでイラクの領有を確定させ、この条約はのちのトルコとイランの国境の基礎になった。ムラトはエレヴァン遠征中に肝硬変を発症しており、飲酒をやめたが、回復後に再開し、1640年に27歳で亡くなった。臨終の床で弟イブラヒムの処刑を命じたが、母后キョセムに防がれたという。詩を多く書き残し、作曲もしたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Alessandro Salvio (1640年没)
- シャルル1世 (ギーズ公) (1640年没)
- ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) (1640年没)
- アゴスティーノ・アガッツァーリ (1640年没)
- インドジフ・マトヤス・トゥルン (1640年没)
同じ地域に関係する人物
- マフムト・パシャ (1474年没)
- Guzelce Ali Pasha (1621年没)
- テオドラ (867年没)
- Duygu Asena (2006年没)
- Kanijeli Siyavus Pasa (1602年没)