伝記
グイド・レーニは、17世紀前半のバロック期に活動したイタリアの画家である。アンニーバレ・カラッチらが創始したボローニャ派に属し、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色とする。日本語では「グイード・レニ」と表記されることもある。1575年11月4日にボローニャで生まれ、1642年8月18日に同じ町で没した。
音楽家の家に生まれた一人っ子で、父ダニエーレは、ボローニャの聖堂の礼拝堂で音楽を教える楽師であった。母ジネヴラ・ポッツィも音楽家の家の出である。そのため幼いころに音楽教育も受け、生涯を通じて文学より音楽を好み、絵を描きながらしばしば歌ったと伝えられる。1584年、9歳のときに、父の友人であったフランドル出身の画家デニス・カルヴァールトの工房に弟子入りした。カルヴァールトは16世紀のヨーロッパ画壇を席巻したマニエリスム系の画家で、同じ弟子にはフランチェスコ・アルバーニやドメニキーノがいた。数年の修業ののち、1594年か95年ごろ、地元のカラッチ家が主宰する画学校に入門し、ルドヴィコ・カラッチに師事した。この学校で、生きたモデルを見て描くことや、銅版画の技法、テラコッタの模型づくりなどを学び、ルドヴィコと多くの装飾の仕事をともにした。1598年には、無報酬の仕事をめぐるルドヴィコとの争いから学校を離れ、教皇のボローニャ訪問を記念する最初の版画を制作した。
20歳代半ばの1601年から1602年ごろ、ローマに出て本格的に画家としての道を歩み始めた。ラファエロの作品や古代彫刻を学ぶために出向いたとされ、とくにラファエロの『聖セシリアの法悦』に魅了されたという。1604年ごろまで、アンニーバレ・カラッチの工房の一員として、ファルネーゼ宮殿の天井画の制作に加わった。ローマには十数年間滞在し、教皇パウルス5世(在位1605年から1621年)や、その甥にあたる枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの注文を受けた。パウルス5世の注文による1608年から翌年にかけての仕事に、バチカン宮殿の「アルドブランディーニの間」の装飾がある。ローマのクイリナーレの丘に建つパラヴィチーニ=ロスピリオージ宮殿の庭のカジーノの天井画『アウローラ』(1612年から1614年)は、代表作とされる。画面の中心は、曙の女神に導かれ、黄金の馬車に乗るアポロンで、そのまわりを輪舞する女性たちは「時」の擬人像ホラである。
『アウローラ』を完成した1614年、レーニは生地ボローニャに戻った。教皇や貴族の注文を受ける華やかな生活よりも、故郷での自由な暮らしを望んだためと言われる。以後、没するまで、短期間の旅行を除いてボローニャを離れず、制作と後進の指導に努めた。優美な女性像を多く描きながら、実生活では女嫌いだったと言われ、生涯独身を通した。作風には、カラヴァッジョの劇的な構図や激しい明暗の対比が見られる一方、ラファエロ風の古典主義様式もうかがえる。考え抜かれた構図、理想化された優雅な人物表現、柔和な色彩は、その典型とされる。生前から「ラファエロの再来」と呼ばれ、ゲーテは「神のごとき天才」とまで称えた。19世紀までの評価はきわめて高かったが、古典主義的絵画の人気が落ちた20世紀以降は不当に低く見られた。20世紀末ごろからは、アカデミスム絵画の再評価とともに、ようやく正当に評価されるようになっている。
同じ年に亡くなった人物
- Martine Bertereau (1642年没)
- リシュリュー (1642年没)
- ジョン・サックリング (1642年没)
- ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1642年没)
- フリードリヒ・ケトラー (1642年没)
同じ地域に関係する人物
- マルカントニオ・ライモンディ (1534年没)
- ドメニキーノ (1641年没)
- Charles, Prince of Hohenzollern-Sigmaringen (1853年没)
- Giovanni Antonio Magini (1617年没)
- ルカ・ギーニ (1556年没)