伝記
キロ・グリゴロフは、1917年5月3日、第一次世界大戦中のブルガリア占領下のセルビア(現在の北マケドニア)にあたるシュティプで生まれた。ある報道によれば、父は職人、母は専業主婦だった。初等教育を地元で受け、中等教育はスコピエで修め、のちにベオグラード大学の法学部を卒業した。第二次世界大戦前にはマケドニアの共産主義の学生運動に加わり、二十歳のとき、ユーゴスラビア王国への政治的な反対を理由に当局に逮捕されたが、のちに釈放された。
1941年にユーゴスラビアが枢軸軍に敗れると、ブルガリアに併合されたスコピエに戻り、1943年まで弁護士として働いた。1942年にはブルガリアの警察に親セルビア派の共産主義者との疑いで逮捕されたが、スコピエ市長が信頼できるブルガリア市民だと保証したため釈放されたという。その後はパルチザンに加わって抵抗運動に参加し、ユーゴスラビア共産主義者同盟や、のちのマケドニア社会主義共和国の前身となる反ファシスト会議の一員となった。同会議では発起委員会の書記と幹部会の財務委員を務め、1944年8月2日の第一回会議に代議員として出席している。
戦後はベオグラードに移り、1945年から1947年まで連邦政府の首相府の次官補、1947年から1952年まで財務次官補を務めた。そののちも経済会議の副議長補佐や連邦経済計画局の副局長などを歴任し、1956年には連邦政府で経済担当の書記官となった。財務に携わる立場から、中央計画経済から労働者評議会による経営への移行という、ユーゴスラビアの初期の経済改革を進めた。そこでは国家ではなく経営者と銀行が予算の規律を保つこととされ、資本不足に陥っていた企業のために、公共支出の削減で運転資金を捻出し、ユーゴスラビア・ディナールの切り下げで輸出競争力を高めることが目指された。市場への移行が賃金財の消費を一時的に抑え、生産への投資を促すと期待していた。1952年にはボリス・キドリッチとともに週刊紙『エコノムスカ・ポリティカ』を創刊し、ソ連型の中央計画経済に代わる社会主義市場経済を訴えた。この新聞は大企業の間で大きな影響力を持ったという。1960年代には市場志向の改革を望む自由主義的な経済学者・政治家として知られ、同じマケドニア出身のクルステ・ツルヴェンコフスキとともに分権化を支持した。1962年から1967年までは連邦の財務大臣を務め、1965年には実現されなかった市場化計画の共同立案者となった。ユーゴスラビア解体の前には、アンテ・マルコヴィッチの市場改革計画の顧問を務めた。
1991年1月27日、各党派の合意により、超党派の大統領としてマケドニア議会に選出された。憲法を改正し、同年6月7日に国名をマケドニア共和国に改め、武力衝突の回避を最優先にしながら交渉を進め、9月8日にユーゴスラビアからの独立を宣言した。1993年にはマケドニアの国際連合加盟を実現し、1995年には暗殺未遂に遭ったが生き延びた。犯人は見つかっていない。1999年11月に大統領を退任し、2012年1月1日、スコピエの自宅で死去した。独立と政治の発展に果たした役割から、内外の研究者やマケドニアの人々は、この国の父と見なしている。
同じ年に亡くなった人物
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- アンディ・ウィリアムス (2012年没)
- Aurora Bautista (2012年没)
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