伝記
レナート・ドゥルベッコは、1914年2月22日にイタリア南部カラブリア州のカタンザーロで生まれたウイルス学者である。幼少期から育ったのはリグーリア州の海沿いの町インペリアで、16歳で高校を卒業してトリノ大学に進んだ。数学と物理学にも強い関心があったが医学を選び、22歳のとき、ジュゼッペ・レーヴィ教授の下で病理解剖学を修めて卒業した。この時期にサルヴァドール・ルリアとリータ・レーヴィ=モンタルチーニに出会い、二人との友情と励ましが、のちに彼をアメリカへ向かわせることになった。ルリアとレーヴィ=モンタルチーニも、後にノーベル賞を受けている。
1936年に軍医として召集され、1938年に除隊したが、1940年にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると再び召集され、フランスとロシアの前線に派遣されて負傷した。入院後、ファシスト政権が崩壊すると、ドイツの占領に対するレジスタンス運動に加わった。戦後はレーヴィの研究室で研究を再開したが、まもなくレーヴィ=モンタルチーニとともにアメリカへ渡り、インディアナ大学ブルーミントン校でルリアとバクテリオファージの研究を始めた。1949年にはカリフォルニア工科大学に移り、マックス・デルブリュックのグループに加わった。
1950年代の初めには、デルブリュックの助言で、アメリカ各地の動物ウイルス研究の拠点を訪ね、細菌のウイルスで近ごろ開発されたプラーク法のような、動物ウイルスを定量的に調べる方法を探した。1年足らずのうちに、西部ウマ脳炎ウイルスでそうした方法を考案し、動物ウイルス学を定量的な研究の領域へ開いた。1952年には培養細胞を使った動物ウイルスのプラーク定量法を導入した。この技術はマルグリット・フォークトとともにポリオウイルスの性質の研究にも用いられた。こうした業績からカリフォルニア工科大学で准教授、のちに教授となり、ポリオーマ・ウイルスをはじめとする動物の腫瘍ウイルスの研究に取り組んだ。1950年代の後半にはハワード・テミンが学生となった。
1962年にソーク研究所へ移り、デビッド・ボルティモアや利根川進らを指導した。1972年にはイギリスの王立がん研究基金の研究所に移った。1986年には、他の研究者とともにヒトゲノム計画の立ち上げに加わった。1993年にはイタリアに戻り、ミラノにある国立研究評議会の生物医学技術研究所の所長を務め、ソーク研究所の教員の地位も保った。イタリアの多くの科学者と同様に、博士号は持っていなかった。そうした課程がイタリアの高等教育に導入されたのは1980年だったためである。2011年12月まで、乳腺のがん幹細胞の研究に取り組んだ。
ドゥルベッコのグループは、腫瘍ウイルスが正常細胞に感染すると、ウイルス由来の遺伝子が細胞のゲノムに取り込まれ、これが細胞のがん化である形質転換の原因になることを明らかにした。レトロウイルスの場合、遺伝子の取り込みの第一段階が逆転写酵素によることは、テミンとボルティモアが示した。ドゥルベッコ自身は二人の実験には直接加わっていないが、二人が発見に用いた方法を教えていたとされる。1975年、三人は「腫瘍ウイルスと細胞の遺伝物質との相互作用に関する発見」によりノーベル生理学・医学賞を受けた。ポール・バーグやリーランド・ハートウェルも、ドゥルベッコの研究室に長期滞在した。1964年にアルバート・ラスカー基礎医学研究賞などを受けた。2012年2月19日、カリフォルニア州サンディエゴのラホヤの自宅で死去した。
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