伝記
ビング・ワ・ムタリカは、1934年2月24日に、マラウイ南部の最大都市ブランタイヤから約30キロ離れたチョロで生まれた経済学者、政治家である。当時の名はブリジットソン・ウェブスター・ライソン・トムといい、小学校の校長の息子だった。父トム・ライソン・ムタリカは37年間教師を務め、教育こそ成功の鍵と信じており、母エレニはスコットランド教会系の信者の女性たちを教えていた。パン・アフリカ主義が大陸を席巻した1960年代に、姓をムタリカに戻し、名をビングとした。のちに名前の間に「ワ」を加えたが、これは当時、ヘイスティングズ・カムズ・バンダが敵対者を拘束していたため、国家警察から身を守るために行ったことだという。
1964年に、バンダが選んだ32人の一人としてインドへ留学し、デリー大学で学んで、経済学の学士号を得た。さらにデリーの経済学院で経済学の修士号を取得し、のちにカリフォルニア州のパシフィック・ウエスタン大学から、開発経済学の博士号を得ている。マラウイとザンビアの官庁で働いたのち、世界銀行の融資担当の職員を務め、1978年から国連の職員となった。国連に加わった理由の一つは、自らを「終身大統領」と宣言したバンダ政権への反対だったという。1991年には、東部南部アフリカ共同市場の初代事務局長に就任した。バンダの独裁が倒れて民主化されると、新政党の統一民主戦線(UDF)の創設者の一人となり、1994年の選挙でUDFは勝利した。
はじめは党首で大統領のバキリ・ムルジを支持したが、経済政策に異を唱えるようになり、UDFを離党した。1997年に統一党を立ち上げたが、ムルジ政権への反対は成功せず、1999年の大統領選挙の得票率は1パーセント未満に終わった。その後、準備銀行の副総裁の座を申し出られて、統一党を解散し、UDFに復帰した。2002年に経済計画・開発大臣に就任し、ムルジ大統領から後継者として指名された。2004年5月20日の大統領選挙で36パーセントの得票を得て当選し、4日後に第3代大統領に就任した。
就任後は、反汚職の運動をめぐってムルジと衝突した。2005年2月に、反汚職の立場が党に理解されなかったとして、再びUDFを離党し、自ら民主進歩党(DPP)を結成した。2005年に農業の肥料や種子への補助の計画を導入し、貧しい農家が肥料と改良種子を使いやすくして、飢えに悩まされた国を食料の余る国に変えたと称えられた。2005年3月には、大統領公邸に悪霊が出て眠れないという報道があったが、のちに否定され、報じた記者らが逮捕された。ムタリカは、悪霊を見たことも恐れたこともないと語った。2006年5月にはバンダを国民的英雄として記念することを認め、墓の除幕式にも出席した。同年には、副大統領が暗殺を企てたとして逮捕されている。2006年10月に民主進歩党の候補として2009年の大統領選への出馬を表明し、2009年5月19日の大統領選挙では、約66.7パーセントの得票で再選された。2010年1月31日に第8代アフリカ連合総会議長に就き、1年の任期を務めた。晩年は強権的な運営が目立ち、国民の不満を招いた。2012年4月5日、心臓発作のために没した。
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