伝記
ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフは、1596年7月22日(ユリウス暦7月12日)に生まれ、1645年7月23日(ユリウス暦7月13日)に没した、モスクワ・ロシアのツァーリである。在位は1613年から1645年で、ロマノフ朝最初の君主にあたる。父はのちのモスクワ総主教フィラレート(俗名フョードル・ロマノフ)、母はマルファ(俗名クセニヤ・シェストヴァ)である。
父がボリス・ゴドゥノフに失脚させられたため、母とともにコストロマのイパチェフ修道院に隠棲していた。1610年にヴァシーリー4世が退位すると、ロシアはツァーリ不在の動乱時代の空位期間に陥ったが、1612年に国民軍がクレムリンに拠るポーランド軍を一掃してモスクワを取り戻した。1613年2月、人民やコサックも参加した全国会議でミハイルがツァーリに選ばれ、動乱時代は終結した。選出には、フョードル1世の母アナスタシアを大伯母に持つリューリク朝の姻戚であること、また16歳の少年だったため、ポーランドやスウェーデンと結んだ「汚い過去」がなかったことなどが有利に働いた。母マルファは当初、息子は幼く重責に耐えられないと反対したという。
即位した時点で、国土の多くはポーランドとスウェーデンに占領されていた。1617年にスウェーデンと、1618年にポーランドと講和したが、モスクワ側は領土的譲歩を余儀なくされた。ミハイルは即位後の6年間、貴族会議と全国会議との合議体制で国政に臨んだが、これは専制を制約するためでなく、経験不足と難題の山積を解決するためだったらしい。ポーランドとの休戦によって1619年に父フィラレートが帰国してモスクワ総主教となり、「大君」の称号を得てツァーリと同格の扱いを受け、息子を抑えて実質的な統治者となった。フィラレートは全国会議を嫌って開く機会を減らし、専制によって秩序が回復できると考えた。1619年から1633年までは国家再建に力が注がれ、富豪ストローガノフ家の財政援助を仰ぎつつ、中央集権政策や土地・人口調査を進めたが、成果は芳しくなかった。逃亡農民を抑える対策もとられ、農奴制への移行が顕著になった。経済復興のため、商人に特権を与えて西欧との交易を奨励した。西欧式の新型軍隊も育成した。
1632年にポーランド王ジグムント3世が没して王位継承争いが起こると、モスクワはこれを好機としてスモレンスクの奪還をめざしたが、南のクリミア・タタールに攻め込まれた。そのころフィラレートが死去し、ポーランド軍も手強い反撃を見せたため、1634年に講和を余儀なくされた。この戦争は完全な失敗で、国家財政を逼迫させたが、ポーランド王ヴワディスワフ4世は、1618年に定めた国境の確定と引き換えに、ツァーリの地位を放棄した。南方の防衛の甘さを痛感したミハイルは、1635年から国境の要塞都市を土塁や逆茂木で結ぶ南部防衛線の建設に着手し、南部は安全になって穀倉地帯として開墾が進んだ。1637年にはコサックがオスマン帝国の要塞アゾフを占領して献上したが、守る余裕のないミハイルは、これをオスマン帝国側に返還せざるをえなかった。
私生活では、1624年にリューリク朝の血を引く大貴族の娘マリヤ・ドルゴルーカヤと結婚したが、直後に死別し、1626年にエヴドキヤ・ストレシニョヴァと再婚して3男7女をもうけた。成長した王子は長男アレクセイだけであった。1645年に世を去り、32年の治世は国家再建と国内秩序の回復に費やされた。
同じ年に亡くなった人物
- ガスパール・デ・グスマン (1645年没)
- ウィリアム・ロード (1645年没)
- エヴドキヤ・ストレシニョヴァ (1645年没)
- ウィリアム・ローズ (1645年没)
- メアリー・ウォード (1645年没)
同じ地域に関係する人物
- イヴァン・ペトロフスキー (1973年没)
- ヴェルナー・ハーゼ (1950年没)
- Georgi Yumatov (1997年没)
- ウラジーミル・ゴヴォロフ (2006年没)
- コンスタンティン・バディーギン (1984年没)