伝記
ミハイル・ティモフェーヴィチ・カラシニコフは、1919年11月10日にロシアのアルタイ地方のクリヤー村で生まれた軍人、銃器設計者である。一族はもともとクバン地方に暮らすコサックだったが、19世紀半ばに農民になったころ、姓をロシア風に改めた。1910年に皇帝ニコライ2世が、アルタイ地方への入植と引き換えに農地を譲渡する政策を発表し、カラシニコフ家もこれに従った。彼は18人兄弟の8人目として生まれたが、生き残ったのは8人だけだったため、何番目に生まれたかは定かではない。一家は小さな丸太小屋に暮らし、幼いころは病弱だったが、外で遊ぶことを好み、何かを作ることにも興味を持っていた。1930年に、土地や農機具を所有していたとして富農とされ、1932年には農業集団化に抵抗したとして、財産の大半を没収され、市民権を奪われて、トムスク州の追放農民の集落に送られた。その厳しい暮らしの中で父が亡くなっている。1934年には集落を脱走して故郷に向かったが、居場所がないと感じて戻った。1936年にはもう一度脱走して、パスポートに必要な書類の印章を偽造し、のちにこれを「私の最初の発明品」と語った。この脱走の途中で拳銃を手に入れて、分解や組立に熱中したことが、銃への興味のきっかけだったと回想している。
1938年に赤軍に入隊し、戦車の操縦士兼整備士としての訓練を受けた。戦車兵に支給された拳銃を銃眼から撃ちやすくする装置を考案し、キエフ軍管区司令官ゲオルギー・ジューコフが兵士の創意工夫を奨励する中、戦車のエンジンの作動状況を計る装置を開発して、ジューコフ自身から称賛された。1941年6月に独ソ戦が始まると、第12戦車師団のT-34戦車の戦車長となった。10月、ハッチから身を乗り出していたとき、近くに砲弾が着弾して、全身に砲弾の破片を受け、負傷者として収容された。病院で療養中、前線での経験や負傷兵との会話から、近代的な自動火器の不足こそが敗北の原因だと考えるようになり、短機関銃への関心を強めた。病院の図書室で銃器の本を読みあさり、療養休暇を命じられると、戦前に働いていた鉄道の機関区で設備を借りて、短機関銃の設計を続けた。その後、各地の研究機関を経てモスクワの砲兵総局に移り、ショーロヴォ武器試験場で短機関銃の設計を完成させた。採用には至らなかったが、軍曹の階級のまま銃器設計者としての身分を認められた。
1945年に始まった新型の突撃銃のコンペに、セミオートマチック・カービンの設計を元にして参加した。のちに妻となる女性技師エカテリーナ・モイセーエワと知り合い、彼の草案から設計図面を引いたのは彼女だった。ドイツ軍の突撃銃に影響を受け、1946年に、全自動で発射できる自動小銃を設計した。この銃が「AK」として知られることになる。1946年の試験で信頼性と火力の高さを評価され、既に半自動式の銃が制式採用されていたにもかかわらず、AKの生産が決まった。1949年からソ連軍で配布され、1950年代半ば以降に広く普及した。簡潔な設計と並外れた耐久性で、旧共産圏をはじめ、各国で生産され、コピー商品も出回った。2度の社会主義労働英雄の称号を受け、2009年には90歳の誕生日に「ロシア連邦英雄」を授与された。その際、AKが犯罪やテロに使われることについて、自分は母国を守る武器を作ったのであり、責任は政治家にあると述べた。2013年に総主教に書簡を送り、多数の人命を奪ったことへの心の痛みを告白した。同年12月23日、胃の出血のため、94歳で死去した。
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