伝記
サー・ジョン・ワーカップ・コーンフォースは、1917年9月7日にオーストラリアのシドニーで、四人きょうだいの二番目として生まれた化学者である。イギリス生まれでオックスフォードに学んだ教師の父と、先駆的な宣教師クリストファー・アイパーの孫にあたる母ヒルダのもとで育ち、シドニーのほか、ニューサウスウェールズ州北部のアーミデールでも初等教育を受けた。10歳ごろから耳が聞こえにくくなる兆候があり、中耳の病気である耳硬化症と診断された。聴力は少しずつ衰え、20歳のころには完全に聞こえなくなったとされる。当初は法律を学ぶつもりだったが、難聴が重い障害にならない分野を探して化学を選んだと、のちに語っている。文献が完全に正しいわけではないと気づいたことが解放感をもたらし、自分が正せるのだと胸が躍ったともいう。
シドニー・ボーイズ高校では優秀な成績を収め、化学の教師レオナルド・バッサーに刺激されて法律から化学へ進路を変えた。1933年に16歳で首席として卒業し、翌1934年にシドニー大学に入って有機化学を学んだ。講義が聞き取りにくくなったが、補聴器は音がゆがむため使えず、読唇もほとんど使わなかった。1937年にはユニバーシティーメダルを授与されて首席で卒業した。在学中に、のちに妻となり、研究上の協力者ともなる化学者のリタ・ハラデンスと出会った。リタは一年早い1936年に同じく首席で卒業していた。1939年、二人はそれぞれ独立に、国外で二年間の研究ができる1851年記念の研究奨学金を得て、オックスフォード大学に移った。ロバート・ロビンソン卿のもとで研究し、14年にわたって協力した。ロビンソンとは、どちらかが相手の反論に対して説得力のある議論を出すまで、際限なく議論を続けたという。1941年にはそろって有機化学の博士号を得た。
第二次世界大戦中はペニシリンの研究で名をはせ、とくにその精製と濃縮に大きく貢献した。ペニシリンは粗い状態では非常に不安定で、研究者たちはハワード・フローリーの仕事を土台にしていた。コーンフォースは1949年に刊行された『ペニシリンの化学』の執筆にも参加した。1946年にはオックスフォードを離れ、医学研究評議会の国立医学研究所に移って、コレステロールを含むステロールの合成の研究を続けた。その後、サセックス大学で化学の研究を行った。酵素が有機化合物の水素原子を置き換える仕組みを調べ、テルペンやステロイドなどの合成と構造の解明を通じて、酵素がどの水素原子を置換するかを特定し、コレステロールの生合成を詳しく説明した。
この業績により、酵素触媒反応の立体化学的研究で1975年にウラジミール・プレログとともにノーベル化学賞を受賞した。ニューサウスウェールズ州生まれの受賞者としては唯一とされる。同年には、難聴に打ち勝って業績を挙げたことを記念してオーストラリアン・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。1953年に王立協会フェロー、1968年にデービーメダル、1972年に大英帝国勲章コマンダー、1977年にナイト、1982年にコプリ・メダルを受けた。有機化学ではコーンフォース転位や、酸化剤として使われるコーンフォース試薬にその名が残っている。2013年12月8日に死去した。
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