HISTORICAL PERSON · 2013年没

マーガレット・サッチャー

イギリスの政治家で、ヨーロッパと先進国で初の女性首相。保守党党首として新自由主義的な改革サッチャリズムを進め、「鉄の女」と呼ばれた。

生涯
2013年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / リッツ・ロンドン)
出生地
イギリス連邦(グランサム)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

マーガレット・ヒルダ・サッチャーは、1925年10月13日にイングランドのリンカンシャー州グランサムで、食糧雑貨商の家に生まれたイギリスの政治家である。父アルフレッド・ロバーツは地元の名士で、市会議員を務めた経験があり、教会で説教師も務める敬虔なメソジストだった。住まいは店の二階にある三部屋と台所だけの家だった。毎週日曜日には家族で教会に通い、父はジョン・ウェスレーの教えに基づいて娘を教育した。幼い頃に培われた平等と公平さ、個人の自由、質素倹約、自己責任と自助努力といった精神は、のちの政治にも受け継がれた。父を尊敬し、「人間として必要なことは全て父から学んだ」と述べている。

1943年9月にオックスフォード大学に入学して化学を専攻し、1947年6月に卒業した。在学中にはフリードリヒ・ハイエクの経済学に傾倒しており、この頃に培った考えが、のちのサッチャリズムの源流になった。卒業後は研究者として企業に就職し、アイスクリームに空気を混ぜてかさを増す方法を研究したことがある。専門はコロイド化学だった。1950年2月、24歳の若さで保守党から庶民院議員選挙に立候補して落選し、翌1951年にも同じ選挙区で落選した。その間の1951年12月に結婚し、1954年6月に弁護士資格を取得。双子も出産した。

1959年に庶民院議員に初当選し、1970年6月からエドワード・ヒース内閣で教育科学相を務めた。教育予算の削減が必要になると、学校での牛乳の無償配給の廃止を決め、反対派から「ミルク泥棒」と非難されて全国的な抗議を招いた。1974年に保守党が二度の総選挙で敗れると、ヒースの指導力に疑問の声が高まり、1975年2月に党首選挙が行われた。当初はキース・ジョセフを支持していたが、彼が貧困者への発言で批判を浴びて立候補を断念したため、代わりの右派候補として出馬した。教育科学相の経験しかないことを不安視する声も多かったが、大方の予想を覆して現職のヒースを破り、1975年2月11日に英国で初の女性の保守党党首となった。党首としてヘルシンキ宣言を痛烈に批判すると、ソビエト連邦の国防省機関紙が彼女を「鉄の女」と呼んで非難した。揶揄のための呼び名だったが、サッチャーはこれを気に入り、代名詞として定着した。

1979年5月の総選挙では、経済の規制緩和や国有企業の民営化による競争力強化を公約に掲げ、保守党を政権奪還に導いた。エリザベス2世女王から首相に任命され、イギリスで初の女性首相となった。電話、ガス、航空などの民営化を断行し、労働組合の影響力を削いで、所得税と法人税の税率を大きく引き下げた。一方で付加価値税は8パーセントから15パーセントに引き上げられた。インフレの抑制には成功したが、失業者は倍増して1982年には300万人を上回り、支持率が低下したため、完全なマネタリズムを放棄してリフレーション政策に転じ、経済は回復した。1982年3月にフォークランド紛争が起こると、艦隊を派遣して6月14日にポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を退けた。この勝利で支持率は73パーセントに達し、保守党は2度目の総選挙に勝った。同年9月には中国を訪れて香港をめぐる交渉を始め、1984年12月に、1997年7月1日に香港の主権を中国へ返還する共同声明が発表された。1984年10月には、党大会の開かれたブライトンのホテルでIRAによる爆弾事件に遭っている。欧州為替相場メカニズムへの加入には強く反対だったが、財務大臣らの働きかけに押されて1990年に加入した。2013年4月8日に死去した。

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