伝記
アーロン・スワーツは、1986年11月8日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで、スーザンとロバートのスワーツ夫妻の息子としてユダヤ系の家庭に生まれたプログラマ、ライターである。父がソフトウェア会社を創業していたため、幼い頃からコンピューターやプログラミング、インターネット文化にどっぷりと浸かって育った。ウィネッカの小規模な私立学校、ノースショア・カントリー・デイスクールに通った。13歳のとき、「有益で、教育的で、協同的な」非営利のウェブサイトをつくる若者の競技会でアルスディジタ賞を受け、受賞者としてマサチューセッツ工科大学を訪れ、インターネット界の有名人たちと会った。14歳でRSS 1.0を立案するワーキング・グループの一員になり、のちにはRDFのコア・ワーキンググループの委員として、RDFをXML形式で表すためのメディア型を定めたRFC 3870の立案にも加わった。マークダウンの作者ジョン・グルーバーの協力者としても知られる。
スタンフォード大学に進んだが1年で退学し、Yコンビネータの夏季起業プログラムで、その最初のスタートアップ企業となるインフォガミを起こした。ここで手がけたウィキ型の基盤は、のちにウェブアプリケーション用の枠組みweb.pyやオープン・ライブラリーのサイトで使われた。協同創業者の必要を感じていたところへ、主催者から合併を勧められ、2005年11月にレディットと合併した。レディットは当初収益化が難しいと見られたが、やがて月に数百万人が訪れるようになり、2006年後半、数か月の交渉を経てコンデナスト・パブリケーションズに買収された。スワーツは会社とともにサンフランシスコに移ったが、まもなく解雇された。2007年9月には、シモン・カールセンとオンラインのメモ帳サービス、ジョティットを始めている。2010年から2011年にかけては、ローレンス・レッシグが責任者を務めるハーバード大学のエドモンド・J・サフラ研究所で、組織の不正を研究した。
社会正義を求める活動にも熱心だった。2008年には、政治家の情報を集めて視覚化するウェブサイト、ウォッチドッグ・ドット・ネットを立ち上げた。同年7月にはイタリアで「ゲリラ・オープンアクセス宣言」を書き、学術雑誌が一握りの私企業によって有料の壁の向こうに囲い込まれる状況を批判した。2006年ごろには、アメリカ議会図書館の目録データを入手してオープン・ライブラリーに公開し、2008年には連邦裁判所の書類の公開システムから約2割にあたるデータをダウンロードして公表した。2011年から2012年には、匿名の情報提供者が身元を明かされず電子文書を送れる仕組みの設計にも関わり、これはのちに報道機関の内部告発の受付システムとして採用された。2012年にはオンライン海賊行為防止法案への反対運動に加わり、法案が阻止されたのち、5月21日にワシントンで基調演説を行った。2006年にはウィキメディア財団の役員選に立候補して落選したが、ウィキペディアの記事がどのように書かれているかを分析し、その結果を発表している。
2011年1月6日、論文データベースのジェイストアから学術雑誌の記事を大量にダウンロードした計画的な犯行に関与したとして、連邦当局に逮捕された。連邦検事はのちに11件の違反で起訴し、最長で35年の懲役刑と100万ドルの罰金などが科される可能性があった。それから2年後の2013年1月11日、ブルックリンのクラウン・ハイツのアパートで、首を吊って死んでいるのが見つかった。26歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- Fred Martin (2013年没)
- Joe Conley (2013年没)
- Abdel Hamid al-Sarraj (2013年没)
- アントニ・ラマレッツ (2013年没)
- ユゼフ・コワルスキー (2013年没)
同じ地域に関係する人物
- アレキサンダー・カートヴェリ (1974年没)
- スチュアート・デイヴィス (画家) (1964年没)
- アダム・ゴールドスタイン (2009年没)
- デヴィッド・マーギュリーズ (2016年没)
- ジョセフ・ワイズマン (2009年没)