伝記
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラは、1918年7月18日に生まれ、2013年12月5日に没した南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、27年間の獄中生活の後に釈放され、1994年に南アフリカ初の全人種参加の選挙を経て大統領に就任した。愛称はマディバで、氏族名であり尊称に近い。ミドルネームは、コーサ語で「トラブルメーカー」を意味する。
トランスカイのウムタタ近郊のクヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれた。少年のころ、首長から部族社会の反英闘争の歴史や、指導者が持つべき寛容の精神を聞いて育ち、この経験が、のちの運動を根底から支えたとされる。メソジスト派のミッションスクールを卒業したのち、フォートヘア大学に進んだが、1940年に学生ストライキを主導して退学処分を受けた。南アフリカ大学の通信課程で学び、1941年に学士号を取り、さらにウィットワーテルスランド大学で法学を学んだ。1944年にアフリカ民族会議に入り、その青年同盟を創設して執行委員となった。1948年に国民党が政権を獲得し、アパルトヘイト体制を築き始めると、青年同盟の有力者として強硬な姿勢の先頭に立った。1949年にウォルター・シスル、オリバー・タンボとともに指導部に選ばれ、組織は請願からストライキやデモへ転じた。1952年に、タンボとヨハネスブルグで黒人初の弁護士事務所を開業した。1956年に国家転覆罪で逮捕されたが、無罪となった。
しかし、1960年にシャープビル虐殺事件が起きると、彼も武装闘争路線へ転換し、1961年11月に軍事組織「民族の槍」を作って最初の司令官となった。1962年8月に逮捕され、獄中にいたところで、1963年のリヴォニアでの指導部の逮捕に関連して再び起訴された。1964年6月11日、国家反逆罪で終身刑を言い渡され、ロベン島の刑務所に収監された。収監は27年に及び、結核などにかかり、石灰石の採掘場の重労働で目を痛めた。獄中でも勉強を続け、1989年に南アフリカ大学の通信課程を修了して法学士号を得た。アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの対話に備えて、アフリカーンス語やラグビーの知識を身につけたのも、獄中でのことだった。次第に黒人解放運動の象徴とみなされ、国際社会から釈放を求められるようになった。
1990年2月2日、デクラーク大統領がANCなどの活動許可とマンデラの釈放を約束し、2月11日に釈放された。1991年7月にANC議長に選ばれ、アパルトヘイト撤廃の交渉に取り組んだ。1993年12月10日に、デクラークとともにノーベル平和賞を受賞した。1994年4月27日に、南アフリカ史上初の全人種参加の選挙が実施され、ANCは得票率62.65パーセントで圧勝し、彼の大統領就任が確実になった。国民党やインカタ自由党と連立政権を作り、デクラークを副大統領に据えた。
大統領としては、人種間や党派間の対立を収め、全人種を融和させることに最も心を砕き、6色の新国旗に象徴される「虹の国」を掲げた。1995年にラグビーのワールドカップが南アフリカで開かれると、全力で支援し、白人のスポーツとされてきたラグビーの代表チームを国民融和の象徴として支えた。代表チームは決勝で初優勝した。1996年にはデズモンド・ツツを委員長とする真実和解委員会を設置し、アパルトヘイト時代の人権侵害を調べて公表した。経済では復興開発計画を実施したが、さほど効果は上がらず、人種間の経済格差は開いたままだった。1999年の総選挙を機に政界から引退した。
同じ年に亡くなった人物
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- Sarabjit Singh (2013年没)
- ラスロ・チャタリ (2013年没)
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- ベボ・バルデス (2013年没)
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- ヤン・スマッツ (1950年没)
- ライアン・コックス (2007年没)
- ザハラ (2023年没)