HISTORICAL PERSON · 2013年没

ピエール・モーロワ

フランスの政治家。リール市長、社会党第一書記を務め、ミッテランの当選に貢献。ミッテラン政権では首相に就いた。

生涯
2013年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / クラマール)
出生地
フランス共和国(Cartignies)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ピエール・モーロワは、1928年7月5日にフランス北部ノール県のカルティニーで生まれ、2013年6月7日にオー=ド=セーヌ県のクラマールの病院で、84歳で没した政治家である。リール市長、首相、社会党第一書記などを歴任した。社会党の闘士とも評された。

教師だった父と、熱心なカトリック教徒だった母の間に生まれ、7人きょうだいの長男だった。父が移り住んだオーシーで育ち、カンブレーなどのリセに通ったのち、パリ南部近郊のカシャンにある国立の師範学校で研修生となった。18歳で社会党の青年組織に加わり、1950年にはその全国書記になった。1948年に歴史を学ぶ学生としてジルベルト・ドゥブーと知り合い、1951年5月に結婚して、息子が一人生まれた。同じ1951年に、民衆教育の全国組織として最も大きなものの一つとなる、レオ・ラグランジュ全国連盟を設立した。1952年に技術教育の教員となり、1955年には技術系の中学校の教員組合の全国書記長に選ばれ、1958年まで務めた。

1950年代から社会主義の運動に参加し、青年運動や技術教員の組合で活動した。その後、ノール県の社会主義組織で頭角を現し、1966年に旧社会党で、書記長ギー・モレに次ぐ党内ナンバー2となった。1968年の総選挙と1969年の大統領選挙で左翼陣営が敗れると、体制の立て直しが迫られた。1971年6月のエピネー大会で社会主義者が大同団結して新しい社会党を結成すると、彼は第一書記にフランソワ・ミッテランを支持し、党内序列でナンバー2となった。1971年には、リールの市議選の名簿に2番目の位置で入り、市長が辞任した2年後の1973年1月に、リール市長となった。1973年にはノール県選出の下院議員になり、地域圏の議会の議長にも選ばれた。1979年のメス大会では、ミッテランに反対するミシェル・ロカールと組んだが、ロカールが1981年の大統領選挙への立候補を表明すると、ミッテラン側に戻り、選挙戦のスポークスマンを務めた。

1981年の大統領選挙でミッテランが当選すると、その貢献が認められて首相に就任した。同年6月の総選挙の後に作られた第二次内閣には、共産党の閣僚が4人加わった。内閣は左派色の強い政策を進め、週39時間労働、5週目の有給休暇、60歳定年制、賃上げ、大企業の国有化、死刑の廃止、地方分権などを実現し、青少年の就職と社会参加を助ける機関も作った。一方で彼は、伝統的な社会主義的経済政策の限界を早くから悟っており、その放棄を主張したともされる。1984年7月、私立学校への補助金を削減できなかったことが政治問題となり、責任を取って総辞職した。

首相を退いた後の1988年5月に、社会党の第一書記に選ばれ、党内の各派の対立の緩和に努めた。1992年9月に社会主義インターナショナルの議長に選ばれ、1999年11月まで務めた。1992年10月からは上院議員となり、2007年の大統領選挙ではセゴレーヌ・ロワイヤルを支持した。

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