HISTORICAL PERSON · 1648年没

ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)

ヴァーサ家のポーランド国王。スモレンスク戦争でロシア軍を退けてポラノヴォ条約を結び、ストゥムスドルフの和約でスウェーデンとも停戦した。

生涯
1648年没
死亡地
リトアニア共和国(アリートゥス地区自治体 / Merkine)
出生地
ポーランド共和国(Lobzow)
出典
世界地図
リトアニア共和国(アリートゥス地区自治体)

伝記

ヴワディスワフ4世は、1595年6月9日に生まれ、1648年5月20日に没した、ヴァーサ家出身のポーランド国王・リトアニア大公で、在位は1632年から1648年である。ジグムント3世と最初の妃アンナ・フォン・エスターライヒの長男で、クラクフ近郊ウォブゾフの王の夏の離宮で生まれた。母は彼が3歳になる前の1598年に亡くなり、母の元女官ウルシュラ・マイエリンに育てられた。のちに、ミハウ・コナルスキが養育係となり、司祭たちや軍事の教師がついた。クラクフ大学で数年学び、ローマにも2年滞在したとされる。ドイツ語、イタリア語、ラテン語を話し書いた。芸術に関心を示し、のちに音楽や美術の庇護者となった。

父の家系は、スウェーデン王位を奪われたことから、ポーランドの王位とは別にスウェーデン王位を求め続けていた。父が動乱のロシアへの影響力を強める中で、1610年に王子ヴワディスワフは、七人貴族会議によって新しいツァーリに推戴された。ただし、この過程には異説があり、王子が正教への改宗を拒んだとも、父ジグムント3世が、王子をモスクワに送り正教へ改宗させるという貴族たちの要請を受け入れなかったとも伝えられる。交渉が停滞するうち、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれた。ヴワディスワフはこれを認めず、1617年にモスクワ大公国へ攻め込んだが、モスクワは奪えず、翌1618年のデウリノの和約でチェルニゴフやスモレンスクなど広大な領土を得るにとどまった。彼はその後も1634年までモスクワ大公の称号を名乗り続けた。

1632年、父の死を受けて新国王に選ばれた。同年ロシアがポーランドに侵攻すると、自ら軍を率いて迎え撃った(スモレンスク戦争)。ロシアは進軍に失敗し、1634年のポラノヴォ条約で、彼がツァーリの称号を放棄する代わりに、1618年の国境線が確認された。1635年のストゥムスドルフの和約では、スウェーデンとの停戦を正式に合意し、東プロイセン北岸のスウェーデン守備隊を引き揚げさせた。だが彼はスウェーデン王位を諦めず、国王の海軍増強計画はセイムに潰され、1641年に建造された艦船はすべて売却された。宗教面では、自身は寛容を目指したが、対抗宗教改革の流れには逆らえず、1647年にはポーランド兄弟団の学校と印刷所の閉鎖が命じられた。

ハプスブルク家との同盟に期待をかけ、1637年に従妹のツェツィーリア・レナータと結婚し、シロンスクのラチブシュ公国とオポーレ公国を回復した。妃の死後はルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガと再婚してフランスへの接近を図ったが、大きな成果はなかった。晩年は、バルカン半島の再キリスト教化を夢見て、無謀な対オスマン帝国戦争を構想し、ウクライナ・コサックを利用しようとしたが、シュラフタらはセイムで1646年、1647年に計画を葬った。利潤の期待を裏切られたコサックは、1648年にフメリニツキーの指揮で反乱を起こし、同年5月にポーランド軍を破った。王は同月に病死した。嫡子がなく、異母弟のヤン・カジミェシュが新王に選ばれた。彼の死は比較的安定した時代の終わりとなり、コサックの反乱と、1655年からのスウェーデン侵攻(大洪水時代)が国を弱めたため、その治世は後の世に、安定と繁栄の黄金時代と見られた。

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