伝記
アンブロジウスは、340年頃に、ガリアのアウグスタ・トレウェロールム(現在のドイツのトリーア)で生まれた、4世紀のミラノの司教である。父も同名のアウレリウス・アンブロシウスといい、ガリアの親衛隊長官を務めた高級官僚で、母は聡明で敬虔な人だったと描かれる。兄弟のサテュロスと姉妹のマルケリナも聖人として崇敬される。幼児の頃、眠っているうちに蜂が舌に止まり、刺す代わりに蜜を垂らしたという奇跡を、秘書のパウリヌスが記録している。父は彼の将来の雄弁を示すしるしと考え、そのため蜂と巣箱は、聖人の図像にしばしば添えられる。
若くして父を亡くした彼は、ローマで法学や文学、修辞学を学び、官僚の道に進んだ。優秀で、368年にシルミウムの長官に、370年頃には、当時西方の政治の中心であったミラノを州都とするリグーリアとエミリアの執政官格の総督に任じられた。374年、ミラノ司教でアリウス派のアウクセンティウスが死去すると、後継をめぐってアリウス派と反アリウス派の民衆が争った。混乱を避けようと、選挙の行われる教会へ駆けつけて調停に乗り出した彼の演説は、「アンブロジウスを司教に」という叫びで遮られ、集会全体がそれに続いた。彼はカトリックとして知られる一方、神学論争に穏やかに対応したため、アリウス派にも受け入れられうる人物だったという。まだ洗礼すら受けておらず、神学も学んでいなかった彼は強く固辞し、家に売春婦を泊めて避けようとしたとも、ミラノから逃げようとして民衆に捕まったとも伝わる。それでも熱心な要求に折れ、洗礼を受けて司教に叙階された。それが374年12月7日で、記念日はこの日に由来する。司教になると禁欲的な生活に入り、財産を貧しい人々に施し、土地の大半を手放した。
司教としては、教会政治家として手腕を発揮し、アリウス派を退けて正統信仰の擁護に努めた。皇帝グラティアヌスに働きかけ、382年にはローマの元老院議事堂から勝利の女神像を撤去させた。384年には、祭壇の再建を訴える首都長官の演説に心を動かされた皇帝ウァレンティニアヌス2世を説き伏せて計画を退け、385年から386年にかけて、アリウス派だった皇帝の母ユスティナとも激しく争った。390年にテオドシウス1世がテッサロニキで住民を虐殺すると、皇帝の破門を宣言して公開の謝罪を要求し、これを得ることに成功した。
ギリシア語に通じた彼は、バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスら東方の教父の思想を学んで西方に伝え、オリゲネスやアレクサンドリアのフィロンに学んだ聖書解釈を西方教会の標準とした。若い頃のアウグスティヌスはミラノで彼と出会い、大きな影響を受けて回心した。アウグスティヌスは、彼を声を出さずに読書した最初の人物と記している。ミラノ聖歌や、ミラノ典礼として知られる典礼様式は、彼に由来するという伝承があり、『テ・デウム』や『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』などの聖歌が彼に帰される。著作には『ヘクサエメロン』『聖職者の職務について』『秘跡について』『兄サテュロスの死を悼む』などがある。397年4月4日に没し、四大ラテン教父の一人、ミラノの守護聖人とされる。
同じ年に亡くなった人物
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- Nectarius of Constantinople (397年)
- リボリウス (397年)
- ジミニャーノ (397年没)
- トゥールのマルティヌス (397年没)
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