伝記
チャールズ1世は、1600年11月19日、スコットランドのダンファームリンで、スコットランド王ジェームズ6世(のちのイングランド王ジェームズ1世)と妃アンの次男として生まれた。話し始めることも歩き始めることも非常に遅く、医師団は舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除や、金属製の長靴のような補強具の使用を提案したが、乳母の反対で、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動き、話せるようになった。兄ヘンリー・フレデリックの死去に伴い、1612年にコーンウォール公とロスシー公に、1616年にはウェールズ公(王太子)に叙された。
1623年2月、父の寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの勧めで、父の許可を得ないままスペインへ出かけ、スペイン王女マリア・アナとの結婚を交渉した。しかし、フェリペ4世に妹をプロテスタントのイングランドへ嫁がせる気はなく、寵臣オリバーレスは交渉を長引かせていた。二人は6月にカトリックへの寛容などの条件を秘密裡に承諾したものの、スペインにプファルツを回復する気がないと気づいて憤慨し、9月に帰国した。半年が空費され、外交経験のない二人の交渉は失敗に終わった。二人は反スペイン派となり、フランス王女ヘンリエッタ・マリアとの結婚が進められたが、ここでも子をカトリックに育てるなどの譲歩を強いられた。
1625年3月に父の死去で即位し、6月にヘンリエッタ・マリアと結婚した。カトリック教徒の王妃を迎えたことは反カトリック派の反感を買い、父同様に王権神授説を信奉して議会と対立した。バッキンガム公を非難する議会を、8月に解散し、1626年にもエリオットの弾劾を受けたバッキンガム公を庇って議会を解散させた。1627年のフランス・ユグノー援助の失敗で人々の怒りを買い、特別税の代わりに強制借上げ金を徴収したことは、ジョン・ハムデンらの反感を招いた。1628年に議会から「権利の請願」が提出されたが、いったん署名したのち、側近を守るため6月に議会を停会した。翌1629年に議会を解散し、エリオットを再び投獄して、1632年の獄死まで監禁した。バッキンガム公は1628年8月に私怨から暗殺された。
以後11年間の無議会政治で、フランス、スペインと和睦して三十年戦争から手を引き、財政再建のため国王大権を濫用して、トン税・ポンド税・船舶税などを強引に徴収し、反対派を星室庁などで処罰した。カンタベリー大主教ウィリアム・ロードの助言でピューリタンを弾圧し、その政策がスコットランドにも国教を強制するに及んで、1637年に祈祷書の押しつけに反対する暴動が起きた。1639年に主教戦争が起こると、休戦を結び、1640年に11年ぶりに議会を招集したが、話し合いは国王批判の場となった。8月にニューバーンで国王軍が敗北し、長期議会を召集せざるを得なかった。長期議会でピムらが専制政治を非難し、税や星室庁などが廃止され、ストラフォード伯は1641年5月、ロードは1645年1月に処刑された。1642年1月、チャールズ1世は5人の議員を逮捕しようとして失敗し、8月22日にノッティンガムで王旗を掲げて内戦が勃発した。
内戦は当初、王党派が互角か優位であったが、1643年9月に議会派と盟約派が同盟を結ぶと議会派に傾き、クロムウェル率いる鉄騎隊が活躍した。1645年6月のネイズビーの戦いで大敗し、翌年4月にオックスフォードから逃れて、スコットランド軍に降伏し、1647年1月に議会へ引き渡されて囚われの身となった。1649年1月30日に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- マヌエル・デ・ファリア・エ・ソウザ (1649年没)
- リチャード・クラショー (1649年没)
- フアン・バウティスタ・マイーノ (1649年没)
- Gerardus Vossius (1649年没)
- アレッサンドロ・トゥルキ (1649年没)
同じ地域に関係する人物
- ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵) (1963年没)
- ダニエル・メンドーサ (1836年没)
- ベアトリス・ダングルテール (1275年没)
- キャスリーン・レイン (2003年没)
- アーサー・マッケン (1947年没)