伝記
小野田寛郎は、1922年3月19日、和歌山県海草郡亀川村(現在の海南市)に、県議会議員の父小野田種次郎と教師の母タマエの四男として生まれた。小野田家は、代々神社の宮司を務める家柄で、寛郎の家はその分家である。旧制海南中学校では剣道の選手として活躍した。卒業後は民間の貿易会社に就職し、中華民国の漢口支店に勤務しながら中国語を習得した。長兄は軍医、次兄は経理将校で、弟も陸軍士官学校に入り、将校となっている。
上海の商社で勤めていた1942年12月、20歳で徴兵検査を受け、和歌山の歩兵連隊に二等兵として入営した。在営中に幹部候補生を志願して合格し、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校した。卒業後、中国語や英語に堪能だったことから選抜され、同年9月に陸軍中野学校二俣分校に入った。遊撃戦を中心に、諜報、防諜、偽装、破壊などの特殊任務を教えられ、卒業後に予備陸軍少尉に任官した。1944年12月、フィリピン防衛の第14方面軍の情報部付となり、残置諜者および遊撃の指揮の任務を与えられて赴任した。師団長の横山静雄中将は、「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と訓示したという。派遣の前、母は短刀を渡し、捕虜になる恐れがあるときにはこれで最期を遂げてほしいと言った。この短刀は、帰国後に母に返している。
1944年12月31日、ルバング島に着任した。マニラの南西約150キロにある島で、アメリカ軍の進撃を阻止するため、飛行場の破壊などの命令を受けていた。長期持久の準備と、後方をかく乱するゲリラ戦術の指導に取りかかったが、多くの将兵は、日本軍に一般的な短期決戦型の戦術と相容れないこの指導内容や、指揮権をもたない小野田への不信感を強めた。1945年2月にアメリカ軍が上陸し、日本軍は艦砲射撃の火力に撃破され、3日間の戦闘ののち、各隊は個別の行動に移った。小野田は、命じられた飛行場と桟橋の爆破を果たせないまま、山間部に避難した。
1945年8月の終戦後も、アメリカ軍の敗戦通告と投降の呼びかけに応じず、伍長の島田庄一、上等兵の小塚金七らとともに島に残った。日本では同年9月に戦死の公報が出されたが、1950年に投降した一等兵の証言で、残留兵の存在が判明した。小野田は、独立後もアメリカ軍が駐留を続けるフィリピンを、アメリカの傀儡政権とみなし、持久戦でアメリカ軍に挑み続けた。レーダー基地への襲撃や狙撃など、百数十回もの戦闘を行い、29年間の作戦行動で、30人以上を殺傷したとされる。ただし殺傷された者の大半は、武器をもたない現地の住民だった。短波ラジオと、捜索隊が残した新聞や雑誌から、日本の繁栄は知っていたが、日本をアメリカの傀儡と信じ、満州に亡命政権があると考えていたという。1972年には小塚が警察官に射殺された。
1974年、冒険家の鈴木紀夫が単独で島を訪れ、2月20日にジャングルで小野田と接触した。鈴木は、戦争は終わったと告げた。小野田は上官の命令解除があれば任務を離れると答えた。3月9日、元上官の谷口義美から任務解除の命令を受けて投降した。翌日、フィリピン軍の基地で投降を宣言し、軍刀を司令官に渡す儀式のあと、大統領マルコスと面会して、犯罪行為について恩赦を与えられた。日本政府は、フィリピンの世論を考えて、見舞金3億円を出す方針を決めた。3月12日に特別機で羽田空港に帰国した。帰国後は、報道につきまとわれたこともあり、戦後の日本への適応は困難だったとされる。2014年1月16日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ペテル・フォン・バグフ (2014年没)
- Deven Verma (2014年没)
- フランチェスコ・マルキサーノ (2014年没)
- 土井たか子 (2014年没)
- ヤン・フート (2014年没)