伝記
ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア・ガルシア=マルケスは、1928年3月6日、コロンビアのカリブ海沿岸にある人口2000人ほどの寒村アラカタカに生まれたジャーナリスト、小説家である。ただし家族の証言や出生証明書からは1927年生まれとする説が有力で、パスポートの誤記が原因とされるが、本人が1928年生まれとしているため、作品の略歴では1928年を採る。事情により両親と離れて祖父母に預けられ、3人の叔母と退役軍人の祖父ニコラス・コルテス、迷信や噂話が好きな祖母のもとで幼年期を過ごした。のちの代表作『百年の孤独』などの小説は、祖父母が語った戦争体験や近所の噂話、土地の神話や伝承に基づくところが大きい。とりわけ祖父は、『大佐に手紙は来ない』の退役大佐や『百年の孤独』のアウレリャーノ・ブエンディーア大佐のモデルになったといわれる。1936年に祖父が亡くなり、1941年に両親のもとへ戻った。
高校時代から執筆を始め、1947年にコロンビア国立大学の法学科に入った。当時、ラテンアメリカの作家を志す若者は法学科に在籍することが多く、バルガス・リョサも同じだった。1948年にボゴタ暴動で学校が閉鎖されたため、家族のいるカルタヘナの大学に移ったが、生活難で中退し、新聞記者として働きながら安アパートで貧しく暮らした。この頃、ジョイスやカフカ、フォークナー、ヴァージニア・ウルフ、セルバンテスなどを耽読した。特にフォークナーは作品の土台に絶大な影響を与えた。ノーベル賞の受賞演説では、「フォークナーが立ったのと同じ場所に立てたことはうれしい」と述べた。カフカの『変身』を読んだ衝撃は、自身の作風を確立する上で決定的な体験の一つになったと語っている。1954年に新聞の記者としてボゴタに戻り、翌1955年に教皇の崩御を伝えるためローマへ飛び、映画の学校で学んだ。しかし同年、独裁者ロハス・ピニーリャの弾圧で新聞は廃刊となり、収入を失って、安アパート「オテル・ド・フランス」で極貧生活を送り、そこで『大佐に手紙は来ない』を書いた。
1957年にはカラカスの雑誌にヨーロッパから記事を送って生活した。1959年にキューバに渡ってカストロと知り合い、革命の成立とともに国営通信社のボゴタ支局編集長となったが、編集部の内部抗争に嫌気がさして辞職した。カストロとの親交はその後も続いた。1961年にメキシコに移り、映画製作に携わるかたわら『大佐に手紙は来ない』を発表した。1967年に『百年の孤独』が出た。1965年のある日、アカプルコ行きの車中で17歳から温めていた構想が一気にまとまり、18か月間タイプライターを叩き続けて完成させたという。この作品はスペイン語圏で「ソーセージ並みによく売れた」と言われ、貧乏生活から抜け出すことになった。1960年代のラテンアメリカ文学の「ブーム」は日本にも及び、大江健三郎や中上健次など多くの作家に影響を与えた。1975年には政治風刺色の強い『族長の秋』を発表し、1981年に自ら最高傑作とする『予告された殺人の記録』を出した。1982年10月21日、ラテンアメリカでは4番目となるノーベル文学賞を受賞した。
1985年に『コレラの時代の愛』、2004年に10年ぶりの新作『わが悲しき娼婦たちの思い出』を出した。1992年に肺の腫瘍を除去し、1997年にメキシコへ移住し、1999年にはリンパ腫の治療を受けた。2012年に弟が、兄は認知症で記憶障害に陥っていると公にした。2014年4月17日にメキシコ市内の自宅で死去した。87歳だった。
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