伝記
マイケル・チルフヤ・サタは、1937年7月6日に生まれたザンビアの政治家で、2011年から2014年まで同国の第5代大統領を務めた。旧イギリス保護領の北ローデシアの北部州にあるムピカで育ち、植民地時代には警察官として働いたのち、鉄道員や労働組合員として働いた。ロンドンに滞在して鉄道の清掃員として働いたことがあり、ヴィクトリア駅では荷物運びもしたという。カトリックの信者だった。
1963年に北ローデシアの政治に積極的に関わり始め、独立後は与党の統一民族独立党の下で地道に階段を上った。1985年にはルサカ州の知事となり、街路を清掃し、道路を補修し、橋を架けるなど、現場主義の行動派として名を上げたとされる。1983年にはルサカのカバタ選挙区から国会議員になっていた。党首のケネス・カウンダとは近い関係にあったものの、カウンダの独裁的な姿勢に幻滅し、1991年に複数政党制を求める運動のなかで同党を離れ、複数政党制民主主義運動に加わった。
1991年にフレデリック・チルバが大統領に選ばれると、サタはよく知られた顔のひとりになり、地方自治相や労働相、短期間ながら保健相も務めた。1995年には無任所相と党の全国組織担当書記を兼ね、その政治手法は次第に攻撃的になったと評された。1996年の総選挙ではムピカ選挙区から立候補して当選した。2001年、チルバ大統領が後継候補にレヴィー・ムワナワサ副大統領を推したことに反発して党を離れ、新たに愛国戦線を結成した。同年の大統領選と国民議会選で愛国戦線は大敗し、獲得した議席は1つにとどまった。
2006年の大統領選では、貧しい人々の立場を訴えるポピュリストとして、現職のムワナワサ大統領の経済改革路線に対抗した。ほかの候補者が個人攻撃や中傷に走るなか、サタの発言もときに辛辣で、集会でキャベツを引き裂いてみせたとも伝えられる。中国資本を国内から追い出すことを公約とし、「日本の方が我が国に貢献している」と発言した。台湾を主権国家と呼んだことから、中国はサタが当選すれば断交すると警告した。開票の途中では一時リードしたと伝えられたが、最終的に得票率は約29パーセントで2位となり、ムワナワサの43パーセントに敗れた。結果の発表を受けてルサカでは暴動が起きた。同年12月には資産の虚偽申告の容疑で逮捕されたが、宣誓の下での申告ではなかったとして、容疑は取り下げられた。2008年にムワナワサが死去して行われた臨時の大統領選では、大統領代行のルピヤ・バンダに38パーセント対40パーセントで敗れた。
2011年9月、サタにとって4度目の大統領選で、得票率43パーセント対36パーセントでバンダに勝利した。愛国戦線は結党以来初めて与党となり、20年続いたMMD政権が終わった。その舌鋒の鋭さから「キングコブラ」の異名を持ち、中国企業を厳しく批判してきたが、選挙期間中は主張を抑え気味にした。就任後は中国大使と会い、投資は歓迎するが現地の法を守るよう求めた。2012年10月に日本を訪れて野田佳彦首相と、2013年4月には中国を訪れて習近平国家主席と会談した。2014年10月28日、治療中のロンドンの病院で死去した。白人の副大統領が暫定大統領となり、2015年1月の大統領選では、愛国戦線のエドガー・ルングが当選した。
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