伝記
マイク・ニコルズは、本名をミハイル・イーゴリ・ペシュコフスキーといい、1931年11月6日にドイツのベルリンで生まれたアメリカ合衆国の映画監督、舞台演出家である。グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞、エミー賞の四つをすべて受けた史上16人の一人とされる。父パヴェル・ペシュコフスキーは、ウィーン生まれのロシア系ユダヤ人の内科医で、革命後に1920年ごろドイツに移り住んだ。母ブリギッテ・クラウディアはドイツ系のユダヤ人で、母方の祖父母は、無政府主義の理論家グスタフ・ランダウアーと作家ヘートヴィヒ・ラハマンだった。4歳のとき、百日咳の予防接種に対するアレルギー反応で髪の毛を失い、成人してからは、かつらと付けまゆげを生涯用いた。
1939年4月、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を逃れるため、7歳のニコルズは、兄弟のロバートとともにアメリカへ渡った。父はその数か月前に単身で脱出しており、4月28日に一家はニューヨークに移った。イタリア経由でヨーロッパを発った母とは、1940年に再会した。父は姓をニコルズに改め、医師の資格を得る前は労働組合の医師としてエックス線の撮影をしていたが、機械の遮蔽について知識がなく、白血病で44歳で亡くなった。ニコルズは1944年にアメリカ市民となり、ブロンクスの学校、ついでセントラルパーク西の私立学校に通った。短期間ニューヨーク大学にいてから中退し、1950年にシカゴ大学の医学進学課程に入ったが、これも中退した。この時期を「楽園」と呼び、ここへ来て初めて友だちができたと語っている。
1953年にはシカゴの音楽ラジオ局で番組の司会者となり、土曜の夜の民謡番組をつくって2年間担当した。この番組は今も続いている。同じ年にニューヨークへ戻り、リー・ストラスバーグに演技を学んだが、舞台の仕事は得られなかった。シカゴに舞い戻り、1955年に即興劇団「コンパス・プレイヤーズ」に加わった。この劇団は、のちのセカンド・シティの前身である。そこで知り合ったエレイン・メイと、1958年に喜劇コンビ「ニコルズ・アンド・メイ」を結成し、風刺劇を演じて三枚の録音を出し、1962年にグラミー賞の最優秀コメディ・パフォーマンス賞を受けた。
その後は演出に転じ、1963年にニール・サイモンの喜劇『裸足で散歩』でブロードウェイにデビューした。『ラヴ』(1964年)や『おかしな二人』(1965年)などを演出してトニー賞の演出賞を受け、生涯でトニー賞を7つ受賞した。ブロードウェイで25本以上の舞台を演出または製作した。1966年に『バージニア・ウルフなんかこわくない』で映画監督としてデビューし、この作品はアメリカ映画の検閲制度であるヘイズ・コードが撤廃されるきっかけとなった。翌年の『卒業』でアカデミー監督賞を受け、ダスティン・ホフマンを一躍スターにした。アメリカン・ニューシネマを代表する監督となった。『シルクウッド』(1983年)、『ワーキング・ガール』(1988年)、『バードケージ』(1996年)、『クローサー』(2004年)などを監督した。妻はニュースキャスターのダイアン・ソイヤー、息子は映画監督のマックス・ニコルズである。2014年11月19日、心不全で没した。
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