HISTORICAL PERSON · 2014年没

ローレン・バコール

アメリカの女優。ボガートと共演した『三つ数えろ』『キー・ラーゴ』などで知られ、2009年にアカデミー名誉賞を受賞した。

生涯
2014年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / マンハッタン区)
出生地
アメリカ合衆国(ブロンクス区)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ローレン・バコールは、本名をベティ・ジョーン・パースクといい、1924年9月16日にニューヨークのブロンクスで生まれたアメリカ合衆国の女優である。父ウィリアム・パースクは販売員、母ナタリーは事務員で、両親はユダヤ人だった。生まれて間もなく一家はブルックリンへ移ったが、彼女が5歳のときに両親は離婚し、以後、父には一度も会わず、母と緊密な関係を築いた。母の旧姓はウェインステイン=バコールで、のちに正式にバコールと改姓し、彼女もその姓を名乗るようになった。裕福な親戚の援助で私立の全寮制女子高に通い、イスラエルの大統領シモン・ペレスは父方の親戚にあたるという。

1941年からアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演劇を学び、同級生にカーク・ダグラスがいた。案内係として働くかたわら、ファッション・モデルとしても活動を始めた。17歳の1942年にブロードウェイで初舞台を踏み、通行人の役を演じた。同じ年にグリニッジ・ヴィレッジのミスコンで優勝した。10代で「ハーパーズ バザー」の表紙を飾り、「ヴォーグ」などでもモデルをつとめた。18歳のとき、編集者のニコラ・ド・ガンズビュールがダイアナ・ヴリーランドに引き合わせ、ヴリーランドは女流写真家に撮影させて、1943年3月号の表紙に採用した。この表紙が映画監督ハワード・ホークスの妻の目にとまり、ナンシーは『脱出』のスクリーンテストを受けさせるよう夫に薦めた。ホークスの秘書は指示を誤解し、オーディションを受けにハリウッドまで来るようにとの手紙を送ったのだという。

ホークスは週給100ドルで7年間の契約を結び、バコールの面倒をみた。芸名の「ローレン」はホークスが付け、「バコール」は母の旧姓の一部から自分で選んだ。ナンシーも彼女に洗練された装いや立ち居振る舞いを教えた。地声は早口の鼻声だったが、ホークスが低く深みのある話し方を練習させ、毎日数時間、大声でシェイクスピアの一節を暗唱させた。この低い声が特徴となり、「スモーキーで官能的な声」と呼ばれた。『脱出』(1944年)のスクリーンテストのとき、身震いを抑えようと顎を胸に押しつけたため、上目づかいでカメラに向かうようになり、この目線が「ザ・ルック」と呼ばれ、トレードマークとなった。映画では、ハンフリー・ボガートが演じる男の相手役、スリムのあだ名の女性マリー・ブラウニングを演じた。初めは小さな役の予定だったが、撮影が進むにつれて重要になり、最終的にヒロイン格となった。公開後は一躍スターとなり、ファッションにも大きな影響を与えた。

1945年、ワシントンのナショナル・プレス・クラブで、ハリー・トルーマン副大統領が弾くピアノに寝そべる有名な写真が撮られた。ワーナー・ブラザースの宣伝の一環で、彼女は20歳だった。翌年に『密使』でシャルル・ボワイエの相手役を演じたが、酷評された。しかし『三つ数えろ』(1946年)のヴィヴィアン役は、フィルム・ノワールにおける彼女の地位を決定づけた。続いて『潜行者』(1947年)と『キー・ラーゴ』(1948年)でもボガートと共演した。1950年代には興味の持てない脚本を断り、気難しい女優と言われたが、高い評価を得た。1953年のコメディ『百万長者と結婚する方法』では、マリリン・モンローらと共演した。ブロードウェイではミュージカルの舞台にも立ち、『アプローズ』(1970年)ほかでトニー賞を受けた。2009年にアカデミー名誉賞を受賞し、2014年8月12日に没した。

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