伝記
エドワード・ゴフ・ホイットラムは、1916年7月11日にオーストラリアのメルボルン近郊のキューで生まれた政治家で、第21代首相を務めた。連邦の公務員で政府の法律顧問を務めた父フレッドの長子である。父が人権を擁護する姿勢は、彼に深い影響を与えた。祖父の名もエドワードだったため、幼いころから2番目の名で呼ばれた。父の昇進に伴ってシドニーに移り、1927年にはできたばかりの首都キャンベラに移った。首相のなかで、キャンベラで少年期を過ごしたのは彼だけである。当時のキャンベラは設備が簡素で、「奥地の首都」と呼ばれていた。18歳でシドニー大学のセント・ポール・カレッジに入り、映画の撮影に出て最初の給料を得た。文学の学位を取ったあと、法学を学んだ。第二次世界大戦が始まると大学の予備連隊に入り、のちにオーストラリア空軍の飛行隊に参加した。戦後は法廷弁護士となり、1942年にマーガレットと結婚して、息子3人と娘1人を授かった。
1945年に労働党に入党し、1952年に下院議員となった。1960年から1967年まで党の副党首を務め、1967年にアーサー・カルウェルが引退すると、後を継いで党首と野党の指導者になった。1969年の選挙には僅差で敗れたが、1972年には23年間続いた自由党の保守政権に代わって、労働党の革新政権を発足させた。ホイットラムは外務大臣も兼ねた。政権は、ベトナム戦争からの撤退、中華人民共和国との国交樹立、徴兵制の廃止、死刑の廃止、大学授業料の廃止、法律扶助制度の導入、国民皆健康保険の導入、パプアニューギニアの独立の承認などを進めた。アパルトヘイトを採る南アフリカとローデシアへの国連制裁も支持した。
しかし労働党は上院で過半数を取れず、自由党との衝突が激しくなった。1974年にはゲイル元州首相の駐アイルランド大使任命をめぐる紛糾が連邦議会の解散に発展し、総選挙で労働党は下院でも過半数をわずかに割った。国民皆保険などの重要法案を通すため、8月には憲政史上初の両院合同会議が招集された。1975年に入ると、副首相兼財務相が女性問題で更迭され、鉱物・エネルギー相は不正融資で辞任に追い込まれた。野党の新党首マルコム・フレーザーは激しく政府を攻撃して、上院で予算案の通過を阻んだ。
総督ジョン・カーは調整に動いたが妥協は得られず、11月11日午後1時、公邸にホイットラムを呼んで罷免を通告し、別室に待たせていたフレーザーに組閣を命じた。下院の多数派の労働党はすぐに不信任動議を出して可決させたが、議長が復職を求めても総督は無視した。12月13日、総督は両院の解散を宣言し、ホイットラムは国会議事堂の玄関で、総督を救うものは何もないと糾弾した。総選挙は保守連合が勝利し、以後8年にわたってフレーザー内閣が続いた。罷免は憲法の規定に従ったが、総督が従うべき慣習にそぐわず、物議を醸した。ホイットラムは1977年12月まで労働党党首を務めた。
1973年に日本を訪問した際には、日豪の基本的な枠組みを定める条約の締結を提案し、これは1976年の日豪友好協力基本条約として実を結んだ。のちにボブ・ホークにより、ユネスコのオーストラリア大使に任命された。90歳代になってもマスコミへの発言や執筆を続け、2006年に旭日大綬章を受けた。2014年10月21日、シドニーで98歳で亡くなった。
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