伝記
ガイナスは、4世紀のゴート人で東ローマ帝国の軍人である。生年は分からず、400年に没した。ドナウ川の北の出身とされ、歩兵の一兵士から軍歴を始めた。アリウス派を信仰し、蛮族の女性を妻に迎えて数人の子をもうけたとされる。東ローマ皇帝テオドシウス1世と、その息子アルカディウスに仕えた。
394年のフリギドゥスの戦いでは、ゴート人の軍団を率いてテオドシウス1世の陣営に加わり、西ローマ帝国の皇帝を僭称したエウゲニウスらと戦った。このとき部隊には若きアラリック1世も属していたという。テオドシウス1世は翌395年1月に遠征先のイタリアで没し、ヴァンダル族出身の将軍スティリコに後事を託した。スティリコは同年冬、テオドシウス1世がイタリア遠征に連れてきた軍勢を、アルカディウスの待つコンスタンティノープルへ帰還させようとした。しかし、留守中に権力を握っていた同市の長官ルフィヌスがスティリコの帰還を拒んだため、ガイナスがスティリコの代理として軍勢を率いて帰還した。そして同年中に、おそらくスティリコの指示によって、ルフィヌスを殺害した。この功で、軍務の伯の地位を得たともされる。
ところが、ルフィヌスに代わってコンスタンティノープルで権力を握ったのは、執政官となった宦官エウトロピウスだった。399年にエウトロピウスからトラキアの軍司令官に任じられたガイナスは、小アジアで反乱を起こしたゴート人の将軍トリビギルドの討伐に向かった。ところが実際には動かず、反乱を続けるよう促したとされる。皇帝には、エウトロピウスを罷免しなければ鎮められないと訴えて、彼を失脚させた。後に権力を握った行政長官アウレリアヌスは、ガイナスが信仰するアリウス派に否定的な人物だったため、ガイナスはトリビギルドの軍にコンスタンティノープルを攻撃させ、アウレリアヌスの更迭を要求した。アルカディウスはカルケドンでガイナスと会見して妥協し、アウレリアヌス、サトゥルニヌス、ヨハネスの追放を認めた。さらにアウレリアヌスの兄カエサリウスを行政長官とし、ガイナスをマギステル・ミリトゥムに任命した。ただし追放された者の処刑は、ヨハネス・クリュソストモスが阻んだとされる。ガイナスは同市に入ってエウトロピウスを処刑し、約半年にわたって市の主人として君臨した。
だがガイナスは、有能な軍人ではあっても、当時最大の都市を御しきれなかった。市内にアリウス派の聖堂を建てようとして民衆や総主教ヨハネス・クリュソストモスの不興を買い、また銀行家の金や皇宮を手に入れようとして失敗したとされる。身の危険を感じて市から退こうとしたが、400年7月12日、撤退する軍団と家族が市民に襲われ、約7000人のゴート人が殺された。アルカディウスはアウレリアヌスを復帰させ、逃げるガイナスの討伐を、帝国に仕えるゴート人の将軍に命じた。ガイナスはヘレスポントスを渡ろうとしたが、その将軍フラビッタの攻撃で船団を失ったとされる。
その後、ドナウ川を渡って逃れたが、トラキアでフン族の王ウルディンに遭遇して捕らえられ、殺された。首級はウルディンからアルカディウスに送られ、ウルディンは謝礼金を受け取った。アルカディウスは勝利を記念して、翌401年からコンスタンティノープルで記念柱の建設を始め、柱は同帝の死後の421年ごろに完成した。ガイナスの策動は、キュレネのシュネシオスの『帝政論』など、複数の著述家に取り上げられた。
同じ年に亡くなった人物
- クサンテンのヴィクトール (400年(推定))
- Charisius (400年(推定))
- ソシパトラ (400年(推定))
- Pelagonius (400年(推定))
- Gregory of Elvira (400年(推定))
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