HISTORICAL PERSON · 2015年没

ターリク・ミハイル・アズィーズ

イラクの政治家。サッダーム・フセイン政権で副首相や外相を務め、イラク戦争開戦前には教皇との会談を通じて戦争阻止を訴えるなど、旧政権の顔として働いた。

生涯
2015年没
死亡地
イラク共和国(ジーカール県 / ナーシリーヤ)
出生地
イラク共和国(Tel Keppe)
出典
世界地図
イラク共和国(ジーカール県)

伝記

ターリク・アズィーズは、1936年4月28日にイラク北部ニーナワー県のアッシリア人の町タルカイフで、カルデア典礼カトリック教会の信徒の一家に生まれたイラクの政治家である。生まれたときの名はミーハーイール・ユーハンナーといい、のちにサッダーム・フセインから現在の名を与えられたとも言われるが、息子はこれを否定している。10歳のときに一家でバグダードに移り、バグダード大学で英語とファインアートを学び、英文学の修士号を得た。学生時代には汎アラブ主義に共鳴し、イギリスの影響下にあるハーシム朝の打倒を訴える活動に加わっていた。1957年にバアス党の運動に参加し、そこでサッダーム・フセインと出会い、1960年に正式に入党した。

大学卒業後はジャーナリストを志し、1963年に新聞「ジャマーヒール」の編集局長に就いた。1964年にバアス党への弾圧が始まると、1966年まで隣国シリアに亡命して、いったん離党した。帰国後に復党し、党の機関紙の記者兼編集長となって、サッダームの政策を支持する社説を書き続けた。1976年5月に情報大臣として入閣し、翌年には革命指導評議会のメンバーになった。1979年にサッダームが大統領に就任すると、副首相に就いた。イラン・イラク戦争の開戦後の1983年に外相に任命され、欧米やソ連を訪れて、イラクへの支持と軍事支援を取り付けた。1980年4月1日には、シーア派のダアワ党による暗殺未遂に遭ったが、軽傷で済んだ。1984年にはアメリカを訪れてレーガン大統領と会談し、冷え込んでいた対米関係を回復させた。

湾岸戦争が始まると、政権のスポークスマンとして、流暢な英語でバグダードを訪れた海外メディアを相手に連日会見し、アメリカや、反イラクに回るアラブ・湾岸諸国を非難した。ジュネーヴでのベーカー国務長官との最終交渉では、ブッシュ大統領の親書を、このような手紙を我が大統領閣下には渡せないとして付き返し、交渉は決裂した。アズィーズ自身は、クウェート侵攻をフセインから直前に知らされ、その無謀さに驚いて、遠回しに反対するため、あえてサウジアラビアの侵攻を唱えたと言われる。ところが、この案を本気に取ったフセインにたしなめられ、止めることに失敗したという。1991年に外相を解任されたが、副首相は留任した。国連の武器査察への対応と経済制裁の解除に奔走した。外相職を退いた理由は、貿易業を営む長男ズィアドが、父の立場を利用して不正に利益を得たとして逮捕されたためと報じられた。

2003年2月、バチカンでローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談し、米英がイラクを攻撃すれば、世界のムスリムが「十字軍の再来」と受け取ると警告した。開戦前夜の3月19日には、逃亡に失敗して射殺されたという報道が流れたが、すぐにバグダードで会見を開いて否定した。バグダード陥落後は姿を消し、4月24日にアメリカ軍に投降した。投降前に衛星電話で米国の友人に相談し、家族の安全の保障を求めていたという。獄中からの手紙で、一日中監視されていると訴え、糖尿病や心臓病を患った。2006年5月には、ドゥジャイル事件の裁判で被告側の証人として、サッダームを弁護した。同年12月にフセインが処刑されると、涙を流し、本当のサッダームについての本を書くと語ったという。2007年3月には、クルド人虐殺はなかったと証言して、クルド人の裁判長を激怒させた。2015年6月5日に死去した。

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