伝記
上田忠彦は、1947年8月3日に生まれ、京都市立太秦小学校でサッカーを始めた。元日本代表の釜本邦茂と同じ学校で競技に触れた後、市立蜂ヶ岡中学校、京都商業高等学校へ進み、さらに法政大学で学んだ。学校年代から大学へと競技を続ける道筋を歩み、卒業後は新日本製鐵に加入して、国内の実業団サッカーを舞台に本格的な選手生活へ入った。
現役時代の上田は、ヘディングの強さを特徴とするフォワードだった。1970年から1973年まで新日本製鐵でプレーし、日本サッカーリーグ1部では通算60試合に出場して25得点を記録したとされる。1970年には日本代表にも選ばれ、同年8月2日の韓国戦で国際Aマッチに初出場し、8月10日のシンガポール戦で初得点を挙げた。1970年のアジア大会では釜本邦茂と2トップを組み、前線で得点を担う選手として国際舞台を経験した。
日本代表としては1970年から1971年にかけて活動し、7得点を記録したとされる。上田の歩みは、京都で始めたサッカーが、学校、大学、実業団、そして代表へと段階的に広がっていった過程でもあった。とりわけ、ヘディングを武器とするフォワードとして国内リーグと代表戦の双方でプレーしたことにより、京都出身の選手が日本の競技水準を競う場へ進んだ一例となった。
現役引退後、上田は選手として培った経験を、育成と競技運営の側へ移した。京都市の京都J-マルカフットボールクラブで代表者を務め、サッカーの指導者として活動したほか、京都クラブユースサッカー連盟(U-15)の監事も務めた。さらに2007年からはJ2担当のJリーグマッチコミッショナーに就任し、選手として競技に参加する立場から、若年層の育成や試合の運営を支える立場へと役割を変えていった。
上田は2015年4月15日、肺癌のため死去した。67歳だった。現役時代には日本代表として国際試合に出場し、引退後には京都のクラブやユース年代、Jリーグの運営に関わったため、その生涯は一人のフォワードの競技歴にとどまらず、選手経験を次の世代とサッカーの仕組みへつないだ歩みとしてたどることができる。
同じ年に亡くなった人物
- アンソニー・メイソン (2015年没)
- アレクシス・バスティーヌ (2015年没)
- ハルドール・アウスグリムソン (2015年没)
- アンディ・ホワイト (ドラマー) (2015年没)
- ドルフ・シェイズ (2015年没)