伝記
アヴール・パキール・ジャイヌラーブディーン・アブドゥル・カラームは、1931年10月15日に現在のタミル・ナードゥ州にあるラーメーシュワラムの、タミル人のムスリムの家庭に生まれた。インドの科学者、技術者であり、のちに第11代大統領を務めた。父は舟の持ち主で地元のモスクのイマームでもあり、ヒンドゥー教徒の巡礼者を島と対岸の間で運んでいた。母は専業主婦で、4人の兄と1人の姉のいる家の末っ子だった。先祖は裕福な商人で地主だったが、1914年に橋が開通すると家業が傾き、生まれたころには貧しかった。少年のころは、家計を助けるために新聞を配った。
学校の成績は平均的だったが、教師からは、聡明で勤勉、学ぶ意欲が強い生徒と評され、数学を学ぶのに何時間も費やした。1954年にティルチラパッリの大学で物理学を修め、1955年にマドラスへ出て、マドラス工科大学で航空工学を学んだ。課題が遅れて、学部長に3日以内に仕上げなければ奨学金を取り消すと迫られたが、期限を守って学部長を感心させたという。戦闘機パイロットになる夢には、空軍の枠が8人のところ9番で届かなかった。大学を出た年は1958年とも1960年ともされる。
卒業後は国防研究開発機構に入り、小型のホバークラフトの設計に携わったが、この仕事を選んだことには確信を持てなかった。やがて宇宙科学者のヴィクラム・サーラーバーイーの下で働くようになり、インド宇宙研究機関で、インド初の国産衛星打ち上げロケットSLV-IIIの開発で責任者を務めた。1980年7月、ロヒニ衛星を低軌道に乗せることに成功している。1982年に国防研究開発機構へ所長として戻り、国産の誘導ミサイルの開発に専念した。アグニとプリトヴィの両ミサイルの開発と運用で責任者となり、「インドのミサイル男」とあだ名された。1992年には国防省の科学顧問となり、のちに政府の主席科学顧問として大臣の待遇を受けた。1998年のポカラン核実験では、組織の面でも技術の面でも政治の面でも、重要な役割を果たしたとされる。
2002年、与党のインド人民党と野党の国民会議派の両方に支持され、大統領に選ばれた。現職のナラヤナンには二期目への意欲や支持がなく、政治的な背景がなく国民的な英雄だったカラームが超党派で推された。対立候補は左翼戦線が推すラクシュミー・セヘガル大佐で、投票は4152票対459票という大差だった。2002年7月25日から2007年7月25日まで5年の任期を全うし、「国民の大統領」と呼ばれた。退任後も教育と執筆、公共のための活動を続け、2001年11月からはチェンナイのアンナ大学で技術と社会変革を教えていた。各地の高校生と会って、若い世代の心に火を灯す活動にも加わった。2014年11月には北京大学の名誉教授の称号を受けている。
菜食主義を守り、酒も飲まない規律正しい生活を送り、クルアーンと『バガヴァッド・ギーター』の両方を読むと信じられていた。タミル文学の古典詩集『ティルックラル』の研究者でもあり、演説でもその一節をよく引いた。自伝『炎の翼』は若者の志を鼓舞する本として知られ、『インド2020』では、2020年までにインドが先進国へ発展するための計画を提唱した。2015年7月27日、シロン経営大学院で講義の最中に倒れ、心停止とみられる症状で83歳の生涯を閉じた。
同じ年に亡くなった人物
- 徐才厚 (2015年没)
- アブデルハミド・アバウド (2015年没)
- David Turner (2015年没)
- エドゥアルド・ガレアーノ (2015年没)
- チューレラン・ゼドケア (2015年没)
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