HISTORICAL PERSON · 2015年没

ヘルムート・シュミット

ドイツの政治家。1974年から1982年まで第5代連邦首相を務め、国防相や財務相なども歴任した。のち『ディー・ツァイト』紙の共同編集者となった。

生涯
2015年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)

伝記

ヘルムート・ハインリヒ・ヴァルデマー・シュミットは、1918年12月23日に生まれ、2015年11月10日にハンブルクで96歳で没したドイツの政治家である。ドイツ社会民主党に所属し、第5代連邦首相(在任1974年から1982年)を務めた。国防相、経済財務相、財務相も歴任し、1983年からは『ディー・ツァイト』紙の共同編集者を務める言論人でもあった。

ハンブルクに、教師だった両親の子として生まれた。父はユダヤ教徒の商人と女性給仕の間に生まれた私生児で、ナチスの政権獲得後、ユダヤ人への差別と迫害が始まると、書類を偽造してアーリア人の証明書を得たと、シュミット自身が認めている。1937年にアビトゥーアを取得した後、兵役でドイツ国防軍に入り、第二次世界大戦中は東部戦線に将校として従軍した。1944年には、ヒトラー暗殺計画の参加者の人民法廷での裁判を傍聴するよう上官に命じられたが、その茶番ぶりに傍聴を辞退した。1945年初めには、空軍司令官ゲーリングを批判する言動をしたためにナチスの政治将校に裁判にかけられそうになったが、上官の将軍に救われた。1945年4月、イギリス軍の捕虜となり、8月31日に釈放された。釈放後はハンブルク大学で経済学と国家学を学び、ベルギーの収容所で知り合った人物の影響で、1946年に社会民主党に入党した。1949年に経済学の修士号を得て、ハンブルク市の職員となった。

1953年の連邦議会選挙に初めて出馬して当選し、1958年に党の州代表メンバーとなった。1961年12月からハンブルク市の警察(のちに内務)担当の参事となった。1962年2月16、17日の北海沿岸の大洪水では、憲法違反の懸念を恐れずに北大西洋条約機構軍の出動を要請して被害の拡大を防いだ指導力が高く評価され、その名を広く知られるようになった。1965年に連邦議会へ戻り、1967年に党の院内総務に就き、1968年には副党首になった。1969年10月にブラント政権が成立すると、国防相として初入閣し、在任中に兵役義務は18か月から15か月に短縮された。1972年に経済・財務相に就き、同年12月から1974年3月まで財務相を務めた。

1974年5月16日、ブラント首相が辞任すると、急遽連邦首相に就任した。オイルショックによる世界的な経済不況の中で、積極的な景気維持の策をとった。フランスのジスカール・デスタン大統領と緊密に協力し、就任の間もなく欧州理事会を設立した。1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる一連の事件では、妥協しない断固とした態度でのぞみ、航空機のハイジャックにはテロ対策の特別部隊を投入して、鎮圧した。1977年にはソ連の中距離ミサイルの危険を主張し、のちに、ソ連との戦略ミサイルの制限交渉を進めつつ、アメリカ軍のミサイルを西ドイツに配備する「二重決定」を掲げて、国民の多くと自党内からも批判を浴びた。1981年10月には、心臓にペースメーカーを付ける大病をしたが、快復した。

1982年、連立相手の自由民主党と予算案をめぐって対立が深まり、9月17日に、同党の大臣4人が内閣を去った。10月1日、建設的不信任案が可決され、政権の継続を断念した。建設的不信任案が可決されたのは、西ドイツ史上初めてのことであり、後任首相には、ヘルムート・コールが任命された。1984年に党副党首を辞し、1987年を最後に連邦議会からも去った。2015年9月に脚の血栓を除去する手術を受けたが、その後、感染症にかかって体調を崩し、11月に亡くなった。

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