伝記
スュレイマン・デミレルは、1924年11月1日に生まれ、2015年6月17日に90歳で没したトルコの政治家である。中道右派の公正党と正道党を率い、1960年代から1990年代にかけて、首相と大統領を歴任した。首相は通算で7度務め、大統領は1993年から2000年までの第9代であった。
ウスパルタ県アタベイ郡のイスラム村で、ハジュ・ヤヒヤ・デミレルとハジュ・ウンミュハンの子として生まれた。少年時代は羊飼いをしており、軍人や官僚、地主という伝統的な政治エリートとは違う、素朴な出身が、彼の政治家としての像の一部となった。村の素朴な民衆はとくに彼を慕い、保守的な人々は、父がメッカ巡礼を果たしたことや、家で毎日コーランが読まれたこと、村の名が「イスラムの村」を意味することを語る彼に、親近感を持った。故郷の小学校を終えた後は、ウスパルタ、ムーラ、アフヨンの中学校と高校に通い、1948年に又従姉妹のナズミエ・シェネルと結婚した。1949年にイスタンブール工科大学の建築学科を卒業し、電気研究局で働いた。アメリカで灌漑や電気技術、ダム建設を学び、セイハン・ダムの建設では技師を務めた。1954年にダム局長、1955年に国家水利庁の長官に就いた。1960年のクーデターの後は兵役に就き、その後は技師として、アメリカの建設会社の代理人も務めた。
1960年のクーデターで禁止された民主党の後継として、元将軍ラギプ・ギュミュシュパラが創設した公正党の幹部となり、1962年に党の書記局メンバーとなって政界に入った。1964年にギュミュシュパラが死去すると、強い反対もある中で、議員ではないにもかかわらず党首に選出された。1965年には暫定内閣の副首相として初入閣した。同年の総選挙で、ウスパルタ選挙区から立候補して当選し、公正党も単独過半数の議席を得たため、首相に選出された。共和国の生まれの初の首相であり、1960年代後半を通して安定政権を維持し、工業化を進める経済政策を実施した。しかし、1970年の予算審議の混乱をきっかけに政局が混乱し、学生運動や労働争議が激化した。1971年3月12日、軍部が大統領と上下両院議長に書簡を送り、デミレル内閣は退陣に追い込まれた。
1970年代には、右派の宗教政党や民族主義の政党と連立し、3度の組閣を行ったが、不安定な政局が続いた。頻繁な政権交代のため、インフレへの対処も遅れ、1980年9月12日に軍事クーデターが起こった。全政党が解散させられ、デミレルは身柄を拘束されて、政治活動を禁止された。1987年の国民投票の結果、禁止が解かれ、公正党の後継の正道党の党首として復帰した。1991年の総選挙で第一党の座を祖国党から取り戻し、社会民主人民党と連立して、7度目の組閣を行った。1993年にオザル大統領が急逝すると、議会から後任の大統領に選ばれた。1996年に連立政権が崩壊し、世俗主義に抵触する恐れのあるイスラム系政党の福祉党に、組閣を要請せざるを得なくなった。翌1997年には、軍部の圧力で福祉党の政権が退陣に追い込まれた。2000年に任期満了で大統領を退き、政界を引退した。故郷のウスパルタとカザフスタンのアルマトゥには、彼の名を冠した大学がある。
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