伝記
ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアは、1928年6月13日にウェストバージニア州ブルーフィールドで生まれ、2015年5月23日に亡くなったアメリカの数学者である。ゲーム理論、微分幾何学、偏微分方程式で著名な業績を残した。1994年にゲーム理論の経済学への応用への貢献でノーベル経済学賞を、2015年に非線形偏微分方程式論とその幾何解析への応用への貢献でアーベル賞を受賞した。彼の半生を描いた映画『ビューティフル・マインド』でも知られる。
電気技術者の父と、英語とラテン語の教師だった母のあいだに生まれた。幼いころから、他人との共同作業を好まず、独りでいることを好み、何事も自分の考えた方法で行う少年だった。小学生のときに両親から百科事典を買い与えられ、12歳で自室で科学実験を始めた。高校ではE.T.ベルの『数学をつくった人びと』を読んで数学に興味を持ったが、父の影響で化学や電気工学を専攻した。17歳でカーネギー工科大学に奨学生として飛び級で進学し、はじめは化学工学を専攻したが、化学を経て、教員の勧めで数学に変えた。選択科目で国際経済学を学んで、経済学にも興味を持った。1948年に、19歳で学士号と修士号を同時に取得した。指導教官がプリンストン大学に送った推薦状には、「この男は数学の天才である」と書かれていた。
プリンストン大学の博士課程ではゲーム理論を研究し、1950年に非協力ゲームに関する博士論文で博士号を取得した。この論文には、のちにナッシュ均衡と呼ばれる均衡解の定義と特性が含まれていた。ただしゲーム理論の研究は、数学の博士号を得るには数学的に貧弱だとみなされる恐れがあったため、並行して、リーマン多様体の埋め込み問題の研究にも着手していた。1951年に専任講師として赴任したマサチューセッツ工科大学やランド研究所で、本格的に取り組んだ。ナッシュ自身は、ゲーム理論を自分の仕事のなかで特につまらないものと評し、数学者としての評価を高めたのは、リーマン多様体に関する仕事だった。1954年にサンタモニカで逮捕されたことが原因で、ランド研究所のポストを失った。1957年にエルサルバドル出身でMITの学生だったアリシアと結婚し、1958年には29歳の若さで終身職員の権利を得た。
しかしこのころから異常な言動が目立ち始め、1959年に病院で検査を受けた結果、統合失調症と診断された。このころ数学界最大の難問とも言われるリーマン予想の証明に専心しており、そのあまりの困難さが精神をむしばんだとする見解がある。同年にMITを辞職し、1960年にプリンストン大学の近くに戻り、入退院を繰り返しながら研究を再開した。大学の構内を無為に歩き回ることもあり、「ファインホールのファントム」と言われることもあった。1963年にアリシアと離婚したが、彼女は1970年に、夫としてではなく同居人の形でナッシュを引き取り、闘病を支えることを決めた。このころから病状は少しずつ回復に向かい、1980年代後半には統合失調症から快復した。回復の要因について、アリシアは、周りの支えによる「静かな生活」のおかげだろうとしている。
1994年にゼルテン、ハーサニとともにノーベル経済学賞を受賞した。アリシアとは2001年に再婚した。2015年5月19日にリーマン多様体の埋め込み問題に関する功績で、ニーレンバーグとともにアーベル賞を受賞し、オスロでの授賞式からの帰り道、5月23日にニュージャージー州で乗っていたタクシーが事故を起こし、夫妻ともに亡くなった。ナッシュは86歳、アリシアは82歳だった。
同じ年に亡くなった人物
- マーシャル・ローゼンバーグ (2015年没)
- アーウィン・キーズ (2015年没)
- ガンナー・ハンセン (2015年没)
- ロバート・クラフト (指揮者) (2015年没)
- 南部陽一郎 (2015年没)
同じ地域に関係する人物
- アブナー・ダブルデイ (1893年没)
- プラット・アダムス (1961年没)
- アール・ブラウダー (1973年没)
- マリア・イェリッツァ (1982年没)
- テッド・カーソン (2012年没)