伝記
エフゲニー・マクシモヴィチ・プリマコフは、1929年10月29日にソビエト連邦のウクライナ共和国の首都キエフで生まれた政治家、経済学者、東洋学者である。父はロシア人、母はユダヤ系とされ、母は産科医として働き、著名な生理学者ヤーコフ・キルシェンブラットのいとこだった。少年時代は、当時のグルジア共和国の首都トビリシで過ごした。1953年にモスクワ東洋学大学のアラビア語学科を卒業し、1956年にモスクワ大学の大学院を修了した。アラビア語の国家試験で「C」を取り、のちに自分の知識は完璧にほど遠いと評したという。1969年に「エジプトの社会経済発展」に関する論文で経済学博士号を取得し、1997年には法政大学から名誉博士の学位を受けた。
1956年から国家ラジオテレビ委員会で放送記者を務め、特派員や編集長などを歴任した。1959年にソビエト連邦共産党に入党し、1962年からは機関紙『プラウダ』に勤めて、中東特派員などを務めた。この間、国家保安委員会の協力者として、中東やアメリカへの諜報任務にしばしば派遣されたとされる。強要の可能性も伝わる。中東特派員の時期にはサッダーム・フセインと親交を結び、イラク北部のクルド人指導者との接触にも関わった。クルド人にイラク副大統領職を与えるなどしてイラク政府との融和を図ったが実現せず、1974年にクルド人の武装闘争が再開されている。1970年に世界経済国際関係研究所の副所長となり、1977年から1985年までは東洋学研究所の所長、1985年から1989年までは再び世界経済国際関係研究所の所長を務めた。
政治に深く関わるのは、ゴルバチョフ政権からである。1988年にソ連最高会議の議員に選ばれ、1989年から1990年までは最高会議連邦会議議長となり、共産党政治局員候補にもなった。ゴルバチョフの側近として、湾岸危機では特使としてバグダッドを訪れ、フセイン大統領から「対話による平和解決」を引き出した。1991年8月のクーデター事件後は国家保安委員会の第一副議長を務め、ソ連崩壊後はロシア対外情報庁の初代長官となった。1996年1月には第2代の外務大臣に就き、前任者の親西欧路線を修正して、多極体制をめざすユーラシア主義の外交を進めた。同年4月に中国や中央アジア諸国と上海ファイブを結成し、のちの上海協力機構の前身となった。北大西洋条約機構の東方拡大には反対したが、事務総長との長い交渉の末、1997年5月にロシアは基本文書に調印した。
1998年9月、金融危機でキリエンコ首相が解任されると、エリツィン大統領から首相就任を求められ、当初は断ったが、再度の提案に応じて就任した。国際通貨基金に融資を要請し、インフレ率は1998年10月から1999年3月の間に38パーセントから3パーセントに下がったとされる。1999年3月24日、アメリカへ向かう機上で北大西洋条約機構のコソボ空爆の開始を知ると、その場で訪問の中止を決め、飛行機に引き返しを命じた。この出来事は「プリマコフ・ループ」として知られる。人気が高まるにつれてエリツィンとの対立も深まり、1999年5月12日に首相を解任された。表向きの理由は経済の低迷だったが、世論調査では81パーセントが辞任に反対した。その後は「祖国・全ロシア」を結成して下院議員となり、大統領選への出馬を模索したが、プーチンとの会談で断念し、支持に回った。2001年にロシア商工会議所の会頭となり、2002年には「マーキュリー・クラブ」を創設して政府に助言した。2015年6月26日、肝臓癌のため85歳で亡くなった。
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