HISTORICAL PERSON · 1655年没

ピエール・ガッサンディ

フランスの物理学者・数学者・哲学者。アリストテレスの権威に批判的で、デカルトの哲学にも異を唱えた。パリの王立学院で数学を講じた。

生涯
1655年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(Champtercier)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ピエール・ガッサンディは、1592年1月22日、プロヴァンス地方のディーニュ近郊シャンテルシェで、貧しい農夫の家に生まれた。父はアントワーヌ・ガッサン、母はフランソワーズ・ファブリである。最初の教育は、シャンテルシェの教会の主任司祭だった母方の叔父トマ・ファブリに任された。幼くして才能を示し、ディーニュの学院で言語学と数学に優れた素質を見せた。1609年にエクサンプロヴァンス大学に入って哲学を学び、1612年にはディーニュの学院から神学の講義に招かれた。その後アヴィニョン大学で神学博士の学位を得て、1617年8月1日にマルセイユの司教から司祭に叙階された。同じ年、24歳でエクサンプロヴァンス大学の哲学教授となり、神学の講座を旧師に譲った。以後、しだいに神学研究から遠ざかっていった。

講義では主としてアリストテレス哲学を伝統的な方法に沿って扱いながら、ガリレオやケプラーの発見にも関心を寄せた。青年時代には懐疑論者ピエール・シャロンなどの影響でアリストテレスの権威から解き放たれ、スコラ学者が解釈したアリストテレスを揶揄攻撃するパンフレットを書いた。一部を出版したが、その激しさを懸念した友人の忠告により5巻分を焼却したという。1624年に『アリストテレスに関する逆説演習』の第一部を刊行した。1623年にイエズス会がエクサンプロヴァンス大学を運営するようになると、彼は職を離れた。庇護者ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペレスクのもとで過ごし、1628年からはフランドルとオランダを旅して、イサーク・ベークマンらと出会った。1631年にフランスへ戻り、同年には水星の太陽面通過について最初の観測データを公表している。1630年代にディーニュ聖堂参事会の学長に選ばれ、この地位は死ぬまで保った。

1640年にはマラン・メルセンヌの求めで、ルネ・デカルトとの論争に加わった。1641年にパリへ戻ってトマス・ホッブズと出会い、非公式の哲学の講義を開いて弟子を得た。デカルトへの反論は、「存在は思惟によってのみ認められる」とする主張に対し、「存在は、まさしく思惟からと同様に、他のいかなる作用からも推測することができる」というものだった。感覚から与えられる印象を疑ったデカルト的懐疑も、観念の遊戯にすぎないと考えた。1645年にはパリのコレージュ・ロアイヤルの数学教授となり、1648年に体調を崩すまで講義を続けた。

哲学史上最大の功績は、ギリシア哲学が輸入されて以来エピクロスが被ってきた誹謗を斥け、その唯物論を復権したことである。物理学者で経験論者だった彼は、ルクレティウスの研究を通じてエピクロスの原子論を好むようになり、快楽主義にまつわる偏見を取り除いて道徳的純潔さを擁護した。唯物論は無神論と同一でないと論じ、神は第一原因であり世界すべてを創造したという自説も示した。宇宙論ではコペルニクスの説を最も単純で徹底したものと賞賛した。1655年10月24日、パリで没した。死後、経験を重んじる彼の学派とデカルト学派はパリ大学で対立し、ニュートンの原子論は彼の方法で組み立てられたとされる。

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