伝記
アベル・ヤンスゾーン・タスマンは、1602年か1603年にフローニンゲン州の小さな村リュチェハストで生まれ、1659年10月10日に没したオランダの探検家である。オランダ東インド会社に仕え、1642年と1644年の航海で知られる。1642年から1643年の航海では、現在のタスマニア島とニュージーランド、フィジーに到達した最初のヨーロッパ人となった。
会社で働きながら航海術と船乗りの技を身につけたとされる。1631年12月、アムステルダムで船乗りとして、21歳のヤネチェと結婚した。この時すでに先妻と死別しており、先妻との間には娘がいたという。1633年に会社の勤務でテセルからバタヴィア(現在のジャカルタ)へ赴任し、1634年にはモカ号の船長に任命され、マルク諸島への2年の航海に加わった。のち香料をめぐる事件で派遣されたセラム島遠征に加わった。船材を探して上陸した際に村人と争いになり、少なくとも2人の部下が死んだ。1637年にアムステルダムへ帰り、1638年に、さらに10年の契約で、妻とともにバタヴィアへ再び赴任した。
1639年には、マタイス・クワストの指揮する北太平洋の探検に副官として加わり、船団のうちの1隻を指揮した。これは当時噂されていた、日本の東の海にあるという金と銀に恵まれた2つの島を探す航海であった。この航海では出島にも寄港し、北は北海道の南端あたり、東は日付変更線あたりまでを探索し、7月21日には小笠原諸島の父島と母島を、最初に望見したヨーロッパ人となった。
1642年8月、東インド会社の指示で、当時未確認だった南方の大陸テラ・アウストラリスの海岸線の探検に出た。西海岸が発見されていた新オランダが、その大陸の一部かを調べる任務であった。新しい交易路の発見も目的とされ、ヘームスケルク号とゼーハーン号の2隻が使われた。8月14日にバタヴィアを出て、9月5日にモーリシャスに着き、船の修理や補給をして10月8日に出発した。11月24日にタスマニア島の西海岸に達し、総督アントニオ・ヴァン・ディーメンにちなんで、ヴァン・ディーメンの地と名づけた。のち1856年にイギリスが、発見者にちなんでタスマニア島と改名した。
そこから北上を試みたが風に恵まれず、東へ進路をとったため、オーストラリア大陸を見逃した。12月13日にニュージーランドの南島に着き、南米南端のスターテン島の一部と考えて「スターテン・ラント」と命名した。水や食料の補給中にマオリの人々と争いになり、船員4名と数名のマオリが死んだため、その場所を「殺人者の湾」(現在のゴールデン湾)と名づけた。北へ進んだ後、クック海峡をただの湾と見誤り、南北両島が一つの島だと信じていた。1643年1月20日にトンガ、続いてフィジーに至り、ニューギニアの北岸を西へ進んで、6月15日にバタヴィアへ戻った。
1644年の第2回の航海では、ニューギニアの東から南の海岸を回り、トレス海峡を通ってオーストラリア北岸に沿って進んだが、有益な陸地は見つけられなかった。この後、両地への本格的な航海は、クックの時代まで1世紀以上なかった。同年、会社からバタヴィアの司法局の委員に選ばれ、1646年にスマトラを訪れ、1647年にはシャムの王へ会社の手紙を届けた。1648年にはマニラ近海でスペイン船の拿捕に向かったが、成功しなかった。1649年、裁判を経ずに部下を処刑したとして有罪となり、罰金と資格剥奪を受けたが、1651年に復職し、バタヴィアの大地主として生涯を終えた。
同じ年に亡くなった人物
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- ミハウ・ボイム (1659年没)
同じ地域に関係する人物
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- プラムディヤ・アナンタ・トゥール (2006年没)
- アグス・サリム (1954年没)
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