伝記
ジョアン・アヴェランジェは、本名ジャン=マリー・フォスタン・ゴドフロワ・ド・アヴランジュといい、1916年5月8日にブラジルのリオデジャネイロで生まれた実業家であり、スポーツ運動の指導者である。ベルギーから来た裕福な家の出で、父フォスタンはリエージュから移民して武器商を営み、現在のラランジェイラス、コスミ・ヴェーリョ、サンタ・テレーザの各地区にまたがる広大な土地を持っていた。父はアヴェランジェが17歳のときに亡くなった。学校では優秀な生徒で、名門のフルミネンセ連邦大学の法学部に進み、24歳で法学の学位を得た。バス会社の法律顧問となり、別のバス会社の社長兼取締役にもなった。化学・冶金の会社の上級パートナーも務めた。
幼いころからスポーツに関心を持ち、20歳だった1936年のベルリン・オリンピックには水泳選手として出場したが、400メートルと1500メートルの自由形では予選を突破できなかった。1952年のヘルシンキ・オリンピックでは水球のブラジル代表に選ばれて出場し、チームは13位タイだった。1956年のメルボルン・オリンピックでは、ブラジル選手団の団長を務めた。首都圏水泳連盟の会長としてブラジルオリンピック委員会の一員となり、1958年には国際自転車競技連合にも加わった。ブラジルスポーツ連盟の副会長を経て、1958年から1970年代半ばまで会長を務めた。
1974年、イングランド人のスタンリー・ラウスを破って国際サッカー連盟の会長に就任し、ヨーロッパ以外から選ばれた初の会長となった。当選のために86か国を遊説し、しばしばペレが同行した。発展途上の国々に対しては、ワールドカップの拡大と、自分たちが開催できるかもしれない青少年の世界大会を約束した。ラウスはアディダスのフランス子会社を率いるホルスト・ダスラーに支援を求め、第39回総会は決選投票にもつれ込んだが、アヴェランジェが16票差で勝った。会長の座に就いたのちは、アディダスやコカ・コーラを大会の主要なスポンサーに迎え、テレビ放映権の販売を大きく伸ばした。ワールドカップの出場国は16から32に増え、U-17、U-20、コンフェデレーションズカップ、女子ワールドカップが、この時期に創設された。サッカーを商業化する一方で、その資金をサッカー後進地域の発展に充てることにも力を入れた。24年にわたる在任の末、1998年にゼップ・ブラッターに会長を譲り、名誉会長に推された。この年にはフランスのレジオンドヌール勲章も贈られた。
一方で、国際サッカー連盟のマーケティングパートナーだったISL社の破綻に伴う資金疑惑で、アヴェランジェの名前も挙がった。国際オリンピック委員会は、不正な金銭受領の疑いを調べ、2011年12月8日の理事会で厳しい処分を下す予定だったが、12月1日にアヴェランジェが辞任を申し出たため、処分は見送られた。2012年7月にスイスの検察当局の報告書は、女婿のリカルド・テイシェイラとともに、ワールドカップのマーケティング権の付与をめぐって4100万スイスフラン余りの賄賂を受け取っていたと明らかにした。名誉会長の座も、2013年4月に辞した。2016年8月16日、100歳で死去した。
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