伝記
ケルテース・イムレは、1929年11月9日にブダペストで生まれたユダヤ系ハンガリー人の小説家で、ホロコーストの生還者である。貧しいユダヤ人の家庭に生まれ、父は材木商、母は勤め人だった。五歳で寄宿学校に入れられ、両親の不和や離婚、別れたあとの互いへの軽蔑に苦しんだ。のちに自らの幼年期をかなり不幸だったと描いている。1944年、14歳でアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、のちにブーヘンヴァルト強制収容所に移された。収容所が解放されると、アメリカ軍の兵士からスウェーデンやスイスへの移住を勧められたが、共産主義体制下のハンガリーへ戻る道を選んだ。
1945年7月にブダペストへ戻ると、父はすでに亡くなっており、母のもとで貧しく暮らした。共産党に入ったが、その党が人々の意識を抑えつけることをすぐに知った。1948年に新聞記者となったが、勤め先の新聞が1951年に党の機関紙となったため解雇され、工場で働き、工業省の報道部門にも勤めた。1953年に再び解雇されると、執筆と翻訳に専念した。カミュの『異邦人』を読み、作家の道を歩む自らの使命を悟ったという。1950年代の終わりから1960年代にかけては、生計のために音楽喜劇の脚本を書いた。ニーチェ、ホーフマンスタール、シュニッツラー、フロイト、ヨーゼフ・ロート、ヴィトゲンシュタイン、エリアス・カネッティらドイツ語圏の作家を数多く翻訳し、その影響は自作にも及んだ。
1960年代に書き始めたのが、ホロコーストの体験をもとにした自伝的な小説『運命ではなく』である。若いハンガリー人の被収容者の生を、抑えた距離を置いた、ときに皮肉な調子で描いた作品で、刊行は1975年と遅く、当初の反響は控えめだった。しかしスイスの『新チューリヒ新聞』の批評家エヴァ・ハルディマンがこの作品を取り上げて批評を書き、西ヨーロッパで知られるきっかけとなった。ケルテースは、捨てられた新聞でたまたまその批評を見つけたという。二人は1977年から2002年まで手紙を交わし、書簡集は2009年に刊行された。1976年5月19日には、シグリゲトの作家の保養施設で、『生まれなかった子のためのカディッシュ』や『挫折』『英国旗』といった後の作品の基礎を固めた。ここで集中して執筆した日々を、生涯で最良の年月だったと考えている。
1985年に『運命ではなく』が再刊されて初めて、国内でも成功を収めた。共産主義政権には遠ざけられていたが、1989年の体制崩壊後は名声が高まった。1995年にヴィトゲンシュタインの『断想』の翻訳を出して翻訳の仕事をやめ、2000年にヴェルト文学賞を受けた。2001年にはベルリンに移り、2002年にノーベル文学賞を受賞した。授賞理由は、歴史の野蛮な恣意に対して、個人のもろい経験を掲げる作品だとされる。2002年から翌年にかけてはベルリン学術研究所の客員研究員として奨学金を受け、小説『清算』を仕上げた。2003年にはベルリン芸術アカデミーの会員となった。受賞が決まったとき、本国ではまだ無名に近かったため、同じ姓の別の作家の本までが一緒に売れたという逸話がある。2016年3月31日、故郷ブダペストで死去した。
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