HISTORICAL PERSON · 2016年没

ウォルター・コーン

オーストリア生まれの理論物理学者。ナチスの迫害を逃れて移住した。密度汎関数法の研究で主導的役割を果たし、1998年にノーベル化学賞を受賞した。

生涯
2016年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタ・バーバラ)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ウォルター・コーンは、1923年3月9日にオーストリアのウィーンで生まれた理論物理学者であり、理論化学者である。ヴァルター・コーンと表記されることもある。ユダヤ系の家庭に生まれ、1938年にオーストリアがヒトラーに併合された直後、子供を逃がす救出活動によってイギリスへ渡った。後年、ナチス支配下で過ごした1年半と、両親サロモンとギッテルをはじめ親族や教師が殺されたことを思い出すたびに、祖国への思いは非常に痛ましいと書いている。オーストリア国籍だったため、第二次世界大戦の勃発後の1940年7月に、17歳でカナダへ移送された。潜水艦のひそむ海を英国の船団で渡ってケベック・シティーに着き、列車でトロワ・リヴィエールの収容所に送られ、はじめはシャーブルック近郊の収容所に拘束された。収容所にあった小さな教育の設備を最大限に生かし、ついにトロント大学に入ることができた。ドイツ国民として化学の建物には入れなかったため、物理学と数学を選んだ。

1年間の兵役の終わりに、4年課程のうち2年半しか修めないまま、戦時の特例で1945年に応用数学の学士号を得た。1946年に修士号を取得し、ハーバード大学でジュリアン・シュウィンガーの指導のもと、三体散乱の問題を研究して、1948年に物理学の博士号を得た。ここで固体物理学にも関心を持った。コペンハーゲンで短期間研究したのち、1950年から1960年までカーネギーメロン大学に勤め、多重散乱によるバンド構造の研究から、のちに「KKR法」と呼ばれる手法を導いた。ベル研究所との縁で半導体物理にも関わり、ラッティンジャーとの実り多い共同研究も行った。

1960年に新設のカリフォルニア大学サンディエゴ校に移り、物理学科の主任も務めて、1979年までとどまった。その後、サンタバーバラの理論物理学研究所の初代所長を引き受け、1984年に同大学サンタバーバラ校の物理学の教授となり、生涯そこで働いた。1964年にパリの高等師範学校を訪れた際、ピエール・ホーエンバーグとともに、合金の理論を考えたことから、不均一な電子ガスについての論文を発表した。基底状態の電子密度が与えられれば、系に加わった不均一な外場が再現できることを証明し、そのエネルギーを電子密度の汎関数として与えて、密度汎関数法の理論的な根拠を確立した。1965年にはリュウ・シャムと、多電子系の電子密度を、相互作用のない参照系の波動関数を介して求めるコーン・シャム方程式を導いた。これは現代の材料科学の標準的な道具となった。金属のフォノンにおけるコーン異常も研究した。

1961年にオリバー・E・バックリー凝縮系賞、1988年にアメリカ国家科学賞を受け、1998年に、化学物質の性質を量子化学の面から明らかにした功績で、ジョン・ポープルとともにノーベル化学賞を受賞した。1963年にアメリカ芸術科学アカデミー、1969年に全米科学アカデミーの会員になり、2011年にはオーストリア科学アカデミーの名誉会員となった。世界平和に関する学部生向けの講義も担当し、レーガンのスターウォーズ計画には反対した。2016年4月19日、カリフォルニア州サンタバーバラの自宅で、顎の癌のため93歳で亡くなった。

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