伝記
ヴァルター・シェールは、1919年7月8日にゾーリンゲンのヘーシャイトで生まれた西ドイツの政治家である。父は車輪作りの職人で、家庭はプロテスタントだった。1938年に大学入学資格を得て、銀行で修業を始めたが、翌年に徴兵されて空軍に入った。1945年まで従軍し、最終階級は中尉だった。戦争中の1942年に結婚して、1児をもうけた。ナチスに入党していたかどうかは議論があり、本人は入党を否定し続けたが、大統領任期の切れる直前に入党志願書が届いていたことは認め、入党したか否かについては明言を避けた。戦後は政治活動のかたわら、1953年まで企業の経理係などをした。
1946年に自由民主党に入党し、1948年に故郷の市議会議員に初当選し、1950年にはノルトライン=ヴェストファーレン州議会議員になった。1953年に連邦議会議員に初当選して、連邦大統領になるため議員を辞職する1974年まで連続当選した。1956年に連邦の党執行部に入り、この年、党若手グループの「青年トルコ党」の一員として、州政府の連立相手をキリスト教民主同盟から社会民主党に替える動きに関与した。これに反対するグループは離党して自由国民党を結成した。1961年の選挙で成立した第4次アデナウアー内閣に経済協力相として初入閣した。翌年の「シュピーゲル事件」で、アデナウアーに抗議して他の自由民主党の閣僚と辞任したが、問題とされたシュトラウス国防相が更迭され、12月に復帰した。1966年に予算案をめぐってエアハルト内閣と対立すると、再び辞職してその政権を崩壊させ、自由民主党は野党になった。1968年に党首に就任した。
1969年の連邦議会選挙で、キャスティング・ボートを握った自由民主党は、ヴィリー・ブラント率いる社会民主党と連立を組んで、戦後初めてキリスト教民主同盟を野党にした。シェールは副首相兼外相に就任し、西ドイツの外相として初めて1970年にイスラエルを訪れた。ブラントとともに東方外交を進め、「デタントの父」と呼ばれた。東方外交は激しい攻撃を受け、離党者が相次いで、1972年には内閣不信任案が危ういところまで行ったが、11月の総選挙で連立与党が勝利し、12月に東西ドイツ基本条約に署名した。1974年5月、ブラントが「ギヨーム事件」の責任をとって辞任すると、シェールは次の首相が決まるまで首相職を代行した。
同時期に行われた連邦会議で、社会民主党と自由民主党の共同候補として5月15日に連邦大統領に選ばれた。その翌日にヘルムート・シュミットが首相に選ばれると、閣僚と党首の職を辞し、7月1日に第4代連邦大統領に就任した。1976年には、兵役忌避者への思想審査を廃止する法案への署名を一度拒んだ。1978年4月に日本を訪れた。1979年の選挙では、再選の見込みがなかったため出馬せず、1期で退任した。退任と同時に自由民主党の名誉党首となった。ドイツ民謡が得意で、1973年に「黄色い馬車に乗って」のレコードを出して30万枚以上を売り、「歌う大統領」とも呼ばれた。晩年は認知症を患い、2016年8月24日にバート・クロツィンゲンの老人ホームで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ドナルド・ヘンダーソン (2016年没)
- プリンス・バスター (2016年没)
- シモン・ペレス (2016年没)
- アシュラフ・パフラヴィー (2016年没)
- グスタボ・ブエノ (2016年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘルマン・シュタウディンガー (1965年没)
- アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー (1840年没)
- ルートヴィヒ・ゲオルク (バーデン=バーデン辺境伯) (1761年没)
- ゴットフリート・フィンガー (1730年没)
- マリー・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ (1567年没)