伝記
ブレーズ・パスカルは、1623年6月19日にフランス中部のクレルモンで生まれ、1662年8月19日に没したフランスの哲学者、数学者、物理学者、キリスト教神学者、発明家である。神童として数々の逸話を残した早熟の天才で、才能は多分野に及んだが、39歳で世を去った。死後に『パンセ』として出版された遺稿は、彼が目標とした護教論の書として、自身の手でまとめることはかなわなかった。
父は法服貴族で税務管理官のエティエンヌ・パスカルで、母はアントワネット・ベゴンであった。姉のジルベルトと妹のジャクリーヌがおり、とくにジャクリーヌとは非常に仲がよく、この世で一番愛していたともいわれる。母は、ジャクリーヌの出産で体を痛めたことが原因といわれ、彼が3歳のときに亡くなった。父は家庭で英才教育を施した。当時の子どもは8歳でラテン語を学ぶのが普通だったが、父の教育方針は、まず推理力と判断力を養うことを重んじるものであった。数学や自然科学、歴史、地理、哲学にも通じた父は、子の問いに正しく答えることができた。1631年、片親を失った3人の子の教育のため、一家はパリへ移った。父は、彼が数学に没頭しすぎるのを恐れ、本格的な学問の前にラテン語の習得を優先させようと、あえて数学を遠ざけていた。それでも12歳(1635年)で、三角形の内角の和が二直角であることを自力で証明したと言われる。
父が参加したメルセンヌのアカデミーには、ジラール・デザルグやジル・ド・ロベルヴァルら一流の数学者や科学者が集まっており、彼はそうした大人たちの会合に加わって討論し、その才能が本格的に開花した。1640年、16歳で『パスカルの定理』を含む『円錐曲線試論』を発表した。父の税務管理の仕事を楽にするため、1642年末に機械式計算機の設計に着手し、3年後の1645年に完成させた。だが製作に没頭しすぎて体を傷め、ほとんど半病人になってしまった。ほかに、パスカルの三角形、確率論の創始につながる賭けの考察、サイクロイドの求積、パスカルの原理などの業績がある。
1646年、一家はサン・シランの修道院長とも呼ばれるジャン・デュ・ヴェルジエ・ド・オーランヌの弟子らと出会い、信仰に目覚めて、ジャンセニスムに近づいた。1651年に父が死去し、妹ジャクリーヌがポール・ロワヤル修道院に入った。彼は一時期、社交界に出入りして、人との節度ある交流を重んじるオネットムという生き方に目覚めたが、1654年に再び信仰へ意識を向け、ポール・ロワヤルに近い立場から論じるようになった。1656年1月、アントワーヌ・アルノーの依頼で、イエズス会に対する反駁書を『プロヴァンシアル』として刊行し、1657年3月付の第十八の手紙まで書いた。神の恩寵を弁護し、イエズス会のたるんだ道徳観を非難して、広い議論を巻き起こした。その後、キリスト教を擁護する書物の執筆に着手してメモを多数記したが、体調を崩し、完成させることはできなかった。
1662年には、「5ソルの馬車」と呼ばれる乗合馬車の仕組みを着想し、パリで創業した。当時の馬車は富裕な貴族が個人で所有するものしかなかったが、これは今日のバスにあたる。そして創業の6か月後、体調が悪化し、8月19日に死去した。死後、病床で着ていた肌着の襟の中に、短い文書が縫い込められているのが見つかり、そこには、以前に体験した回心という宗教的な出来事が記されていた。遺稿は整理されて『パンセ』として出版され、「人間は考える葦である」の名文句や、確率論を応用して神を信じるほうが合理的だと示した「パスカルの賭け」が知られる。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=ティロル (1662年没)
- ザヤ パンディタ (1662年)
- レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1662年没)
- アドリアン・ファン・デ・フェンネ (1662年没)
- ヨハン・クリューガー (1662年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・エティエンヌ・ドミニク・エスキロール (1840年没)
- アデル・ド・サヴォワ (1154年没)
- ギュスターヴ・シャルパンティエ (1956年没)
- イザベル・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ (2003年没)
- Dominique Venner (2013年没)