HISTORICAL PERSON · 2016年没

ダリオ・フォ

イタリアの劇作家、演出家、俳優、舞台美術家。風刺喜劇で多くのヒット作を出した。1953年に当時の政権と教会を風刺した作品を発表した。

生涯
2016年没
死亡地
イタリア共和国(ミラノ県 / ルイージ・サッコ病院)
出生地
イタリア共和国(サンジャーノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ミラノ県)

伝記

ダリオ・フォは、1926年3月24日にイタリア北部ロンバルディア州ヴァレーゼ県のサンジャーノで、長子として生まれた劇作家であり、演出家、俳優、舞台美術家である。父フェリーチェは国鉄の駅長で、社会主義者であり、アマチュア劇団の俳優でもあった。そのため一家は転勤でスイス国境付近を転々とした。母ピーナは農民の出で、戦間期の郷里の思い出を本にしている。フォは、母方の祖父やロンバルディアの漁師、ガラス職人から、物語を語る技を学んだという。

1940年代にミラノに出て、ブレラ美術アカデミーで学んだ。戦争中のことについて、本人は、16歳でムッソリーニのイタリア社会共和国軍に徴兵された世代の一人だったこと、家族が反ファシストの抵抗運動に関わっていたため、はじめは目立たぬようにしていたと語っている。また、父を手伝い、避難民や連合軍の兵士を農民に変装させてスイスへ逃がしたとも述べ、脱走ののち抵抗運動を探し歩いたという。ただし、この証言には、パルチザンや同じ部隊にいたファシストの証言による異論があり、1979年のヴァレーゼの裁判所の判決も、彼の説明を退けたとされる。戦後は、アカデミーに戻り、ミラノ工科大学で建築も学んだが、論文を終えることなく学業を離れた。

1951年に女優フランカ・ラーメと出会い、1954年に結婚した。同じ年にイタリア放送協会のラジオドラマに出演したのを機に、俳優としての経歴を歩み始める。1953年には、時の政権と教会を風刺した作品を発表して、興行的には成功したが、興行主とトラブルを起こした。1955年にはローマの映画制作会社に移って脚本を多く手がけ、この年に長男ヤコポが生まれている。1959年にミラノへ戻り、妻とともに劇場を旗揚げして、活動の拠点とした。1960年の『天使たちはピンボールをしない』が大ヒットし、翌年にはスウェーデンとポーランドへ初の海外巡業を行った。

1962年、放送協会のクイズ番組で政治家とマフィアの癒着を指摘したところ、脅迫されて降板し、以後15年にわたって同局から干された。イタリア共産党の催しを手がけたため、右翼の襲撃も受けた。1967年には、ベトナム戦争とケネディ大統領暗殺をめぐる言動を理由に、アメリカ入国を拒否された。プラハの春を支持したため、東側諸国でも興行を拒まれたという。1969年に発表した『滑稽なミステリー(ミステーロ・ブッフォ)』は、中世の喜劇のモノローグを時事風刺に絡めて大好評を得て、多くの後進に影響を与えた。この作品については、ローマ教区のポレッティ枢機卿が、テレビ史上もっとも冒涜的な番組だと非難したと伝えられる。

1970年代にも風刺を続け、パレスチナ解放機構を支持してメンバーを俳優に起用した。チリのクーデターへの抗議デモに参加して逮捕されたこともある。『アナーキストの事故死』『払えないの?払わないのよ!』なども代表作となり、彼の戯曲は30の言語に訳されて世界中で上演された。1989年には天安門事件に抗議し、1992年にはオランダでオペラ『セビリアの理髪師』を演出した。1997年、中世の道化に倣って権力を鞭打ち、虐げられた人々の尊厳を擁護したとして、ノーベル文学賞を受けた。2006年にはミラノ市長選に出馬して落選している。2013年に妻と死別し、2016年10月13日にミラノの病院で亡くなった。

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