伝記
デヴィッド・ボウイは、1947年1月8日にロンドン南部のブリクストンで生まれたイギリスのシンガーソングライターである。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズといった。ケント出身でウェイトレスをしていた母マーガレットと、ヨークシャー出身で子供のための慈善団体の広報をしていた父ヘイウッドの間に生まれた。1953年に一家はブロムリーの郊外に移った。音楽好きの父が買ってくるアメリカのロックを聞いて育ち、異父兄テリー・バーンズの影響でモダン・ジャズにも関心を持って、チャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれた。14歳の1961年に、母からプラスチック製のアルト・サックスを贈られ、地元の音楽家からレッスンを受けた。
15歳の1962年に重傷を負った。学校でガールフレンドをめぐる喧嘩をして、友人に左目を殴られ、4か月入院し、左目の手術を数度受けたのである。この後遺症で、虹彩の色が左右で異なるようになった。同じ年に初めてのバンド「コンラッズ」を結成し、主な演奏場所は若者の集まりや結婚式だった。モンキーズのデイビー・ジョーンズと紛らわしいため、1966年4月のシングルから「デヴィッド・ボウイ」を名乗った。名は、19世紀のアメリカの開拓者ジェームズ・ボウイと、彼が愛用したボウイ・ナイフから取ったものである。
1967年6月にデビュー・アルバムを出した。制作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民を救う活動に加わっている。1969年には、映画『2001年宇宙の旅』を題材にして、アルバム『スペイス・オディティ』を作った。アポロ11号の月面着陸の直前にシングルを出した。1970年にミック・ロンソンを盟友に迎え、『世界を売った男』を出し、1971年の『ハンキー・ドリー』では、歌詞に哲学や美学の要素が強まった。1972年3月には、解散の危機にあったモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供し、大ヒットした。
1972年6月に、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』を出した。架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、バックバンドの「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従えて、1年半もの世界ツアーを行った。衣装やメイクは次第に奇抜になった。1973年7月3日のイギリスでの最終公演で、ジギーの終焉を宣言した。その後は、子供のころに聞いた曲によるカバー・アルバム『ピンナップス』を出し、バンドを解散させ、ロンソンとも離れた。1974年にはウィリアム・バロウズが有名にした「カット・アップ」の手法で『ダイアモンドの犬』を作った。1975年に出した『ヤング・アメリカンズ』には、ジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」が入り、全米1位となった。
1976年には、薬物の使用で疲れ果て、「痩せた青白き公爵」という架空の人物を名乗り、『ステイション・トゥ・ステイション』を作った。ツアーの後、更生を兼ねてベルリンに移り、1977年から1979年にブライアン・イーノと組んだ『ロウ』『英雄夢語り』『ロジャー』は、「ベルリン三部作」と呼ばれる。1980年の『スケアリー・モンスターズ』を最後にRCAを離れた。1983年の『レッツ・ダンス』は、キャリア最大のヒットとなった。1989年にはロックバンド「ティン・マシーン」を結成し、1993年にモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚した。2003年のツアー中に動脈瘤による胸の痛みで緊急入院し、以後の創作は減った。1996年にロックの殿堂入りし、グラミー賞を5回受けた。2016年1月10日に亡くなった。
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