HISTORICAL PERSON · 2016年没

ミシェル・ロカール

フランスの社会党の政治家。1968年の五月革命で学生を指導し、ミッテラン政権で農相などを歴任。1988年に首相に就任し、EC市場統合を目指した。

生涯
2016年没
死亡地
フランス共和国(パリ / サルペトリエール病院)
出生地
フランス共和国(クールブヴォア)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ミシェル・ロカールは1930年8月23日、パリ郊外のクールブヴォアに生まれたフランスの政治家である。中流階級のプロテスタントの家の出で、母ルネ・ファーヴルは高等師範学校の卒業生、父イヴはレジスタンスにも加わった物理学者で、フランスの原爆の父の一人とされる。少年期にはプロテスタント系のボーイスカウトで育ち、副隊長と隊長をそれぞれ3年務めた。エコール・アルザシエンヌを経てリセ・ルイ=ル=グランに学び、1946年に理系の大学入学資格を得たが、自分には父のような理系の才能がないと悟って進路を変えた。父は理工科学校に進ませたかったため、いったんは仕送りを止めたという。

1947年にパリ政治学院に入り、ジャック・シラクらと知り合った。父の計らいで1946年と47年の夏をイギリスで過ごし、英語に堪能になった。学費を稼ぐため、父の物理学研究室で2年間旋盤工として働き、現場の政治・労働運動家からは左派の歴史を教わった。ヨーロッパ統合を求める思いから、1949年に社会党系の学生組織に入り、シラクを誘ったが成功しなかった。やがて国立行政学院を志し、1952年と53年に筆記を通過したのち、1954年に合格、1956年に入学して、1958年に卒業した。グライダーの操縦もした。

政治に入るきっかけは、植民地戦争への反対だった。アルジェリア戦争が始まると、アルジェリア政策をめぐってギー・モレと決別した社会主義者たちに加わった。大蔵省に勤めたのち、1967年に統一社会党の全国書記となり、1968年の五月革命では学生たちを指導した。1969年には大統領選挙に立候補して3.6パーセントを得て、同年の総選挙で当選した。1974年に社会党に合流し、改革主義で反共産主義の「第二の左翼」を体現して、党首ミッテランの主たるライバルと見られた。1977年から1994年まではコンフラン=サントノリーヌの市長を務めた。1981年の大統領選では世論調査で有力な候補とされたが、出馬を見送った。

1981年にミッテラン政権が生まれると、国土開発計画相に就き、1983年に農相となった。1985年には政権との意見の違いから辞任している。1988年5月、ミッテランの再選を受けて首相に就任した。総選挙で絶対多数を得られなかったため、開放的な内閣を組み、憲法第49条3項を28回も用いて、これは記録とされる。この条項は、一般社会拠出金を創設した財政法などで使われた。社会参入最低所得を成立させ、マティニョン合意を結んだほか、EC市場統合を目指した経済政策を推進した。ミッテランとの関係は緊張したままで、1991年5月、辞任に追い込まれた。

1993年の総選挙で左派が歴史的な大敗を喫すると、社会党の第一書記となった。だが、党をまとめきれず、1994年の欧州議会選挙でロカールを筆頭とする社会主義勢力が大敗したため党首の座を退き、1995年の大統領選に向けた野望も断念した。短期間は上院議員を務め、2009年まで欧州議会議員にとどまり、晩年は極地担当の大使を務めた。1954年にジュヌヴィエーヴ・プージョルと結婚し、1968年に別れ、1972年にミシェル・ルジャンドルと再婚し、のちにシルヴィ・ペリシエと結婚した。2016年7月2日、パリ市内の病院で癌のため亡くなった。

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