HISTORICAL PERSON · 1666年没

アッバース2世

サファヴィー朝の第7代シャー。幼くして即位し、後に親政を開始した。宗教的には寛容を保ち、イエズス会の布教も許可した。

生涯
1666年没
死亡地
イラン共和国(セムナーン州 / ダームガーン)
出生地
イラン共和国(ガズヴィーン)
出典
世界地図
イラン共和国(セムナーン州)

伝記

アッバース2世は、1632年に生まれ、1666年10月に没したサファヴィー朝の第7代シャー(在位1642年から1666年)である。父はサフィー1世、母はチェルケス人のアンナ・ハーヌムで、その長男であった。生没日には異説があり、生まれは12月31日とも8月30日とも、没日は10月25日とも26日ともされる。

1642年、9歳で父の死を受けて即位したが、まだ幼いため、父の大宰相だったサル・タキと祖母ディルラム・ハーヌムが、摂政として政治を取り仕切った。この間に彼は、それまで受けられなかった王としての正式な教育を受けた。1645年、13歳でタキを権力から退け(反対派に暗殺されたとも伝わる)、官僚の顔ぶれを一新して権威を示し、親政を始めた。1648年には祖母を殺害して後見を排斥した。

治世は平和と発展が特徴で、オスマン帝国との戦争を意図的に避け、東のウズベクとの関係も友好的であった。軍事では、1648年にムガル帝国からカンダハールを奪還し、軍を率いた指揮官としての評判を高めた。同じ年、サファヴィー朝に従属するカルトリ王ロストム・ハーンが、彼の意向でカヘティ王国に侵攻し、反抗した王テイムラズ1世を亡命に追いやった。1651年にテイムラズがロシアの支援を得て王位を取り戻そうとしたが、ロシア軍は1651年から1653年の短い戦いで敗れ、テレク川のイラン側にあったロシアの要塞は破壊された。1653年には、ロシアを後ろ盾にしたコサックのコーカサス侵攻も阻止している。1659年から1660年のグルジア人の反乱も鎮圧し、ヴァフタング5世をカルトリの王と認めたが、反乱の指導者は処刑した。1665年にウズベクがホラーサーンを略奪すると出陣した。

一方で、宮廷の浪費と貿易の不調から、財政難が深刻であった。イギリスやオランダの東インド会社との貿易では、輸出品の絹の売れ行きが落ち、逆に両国が金銀を得ていって、イランは金銀不足で経済が悪化した。大宰相ムハンマド・ベグは、直轄領の増加や軍事費の削減で打開しようとしたが、効果は乏しかった。1654年に起用されたこの人物は、オランダ東インド会社から賄賂を受け、親族を要職に就けたともされ、かえって国庫を損ねた。1661年にムハンマド・ベグに代わり起用されたミールザー・ムハンマド・カラキも、無力な行政官であった。

宗教では、代々受け継がれた寛容を続け、イエズス会のキリスト教布教を許した。だがシーア派の反発が強く、その要求でキリスト教への自由を制限し、ユダヤ教徒を迫害して、イスラム教への強制改宗を行った。シーア派にも弾圧を加えて、一部のムスリムの支持を失ったが、シーア派との協力体制は保たれた。

庶民の動向に気を配り、裁判に介入して役人から農民を保護したとされ、西洋の歴史家や観察者には、反乱のない、比較的安全に旅行できる国を治めた寛大で寛容な君主と描かれた。1666年、33歳または34歳で、深酒が原因で急死し、子のサフィー2世スライマーンが継いだ。この新王は幼くして後宮に入り浸り、後宮が政治に介入する腐敗政治となり、サファヴィー朝は没落していった。治世にはヨーロッパ文化の流入で芸術と建築が花開き、イスファハーンのチェヘル・ソトゥーン宮やハージュ橋が現存する。

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