伝記
アンヌ・ドートリッシュは、1601年9月22日に生まれ、1666年1月20日に没したフランス国王ルイ13世の王妃で、ルイ14世の母である。父はスペイン国王フェリペ3世、母は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹マルガレーテで、スペイン中北部バリャドリッドのベナベンテ宮殿で生まれ、アナ・マリーア・マウリシアの洗礼名を授かった。弟にスペイン国王フェリペ4世がいる。
1610年にアンリ4世が暗殺されて幼いルイ13世が即位し、母后マリー・ド・メディシスが摂政になると、フランスはスペインとの融和を図った。1611年、10歳のアナはルイ13世と婚約し、1615年11月にブルゴスで代理結婚式を挙げ、ボルドーで改めて正式に結ばれた。14歳の夫婦は婚姻無効を避けるため結婚の完遂を求められたが、実際には成就せず、その後数年は成就しなかったと見られている。ルーヴル宮では母后に無視され、国王も王妃に関心を示さなかった。スペインの作法のまま暮らしてフランス語はぎこちなかったが、その美しさ、とりわけ白い手は称賛された。1617年に国王が母后の寵臣を暗殺して権力を握ると、側近のリュイヌ公は夫妻の仲を取り持とうとした。しかし1619年、1621年、1622年と流産が続き、関係は再び冷え込んだ。
ルイ13世はリシュリュー枢機卿を重用し、1624年に首席国務卿に任じた。ハプスブルク家との対抗を軸とするその外交は、王妃との対立を避けられなかった。親友シュヴルーズ公爵夫人の影響もあって、王妃は宮廷の陰謀に関わったとされる。イングランド王の寵臣バッキンガム公との恋が噂され、ダイヤの胸飾りをめぐる逸話はラ・ロシュフコーの回想録に記され、大デュマの『三銃士』の題材になった。1635年にフランスが三十年戦争に参戦してスペインに宣戦すると、弟フェリペ4世との文通がフランスの機密に関わるものになっていた。1637年にリシュリューがこれを見つけて王妃を審問し、監視下に置いた。
それでも王妃は懐妊し、1638年9月5日に王太子ルイ・ディユドネ、のちのルイ14世を産み、1640年には次男フィリップを産んだ。1643年にルイ13世が没すると、4歳の新王の摂政に指名された。摂政権を制限する先王の遺言はパリ高等法院に廃棄させ、リシュリューの腹心だったマザランを宰相に据えて世間を驚かせた。マザランとは、愛人関係にあるとも秘密結婚をしたとも噂された。マザランはリシュリューの政策を継ぎ、アンヌも実家スペインと戦う彼を支え続けた。
1648年、重税と新税をめぐる対立からパリで大規模な暴動が起こり、フロンドの乱となった。アンヌはルイ14世とマザランらとパリを脱出し、1650年にコンデ公が逮捕されると反乱は再燃してマザランは一時亡命した。1652年12月に母子がパリに入城して乱は終結した。1651年にルイ14世が成人して摂政は終わったが、マザランの没年まで影響力を保った。1659年のピレネー条約でスペインとの戦争が終わり、翌年、姪のマリー・テレーズとルイ14世の婚姻が成立した。1661年にマザランが没してルイ14世が親政を始めると、アンヌは国務会議から外された。この年には孫の王太子ルイが生まれている。のちにヴァル・ド・グラースへ移り、1666年にそこで乳癌のため没した。多くの人々が聡明で愛らしい女性と見ており、女官だったモットビル夫人が王妃の回想録を著した。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ (1666年没)
- ルイサ・デ・グスマン (1666年没)
- フランソワ・マンサール (1666年没)
- ジェームズ・シャーリイ (1666年)
- アダム・クリーガー (1666年没)
同じ地域に関係する人物
- アントワーヌ・ウダール・ド・ラ・モット (1731年没)
- エリック・ロメール (2010年没)
- イヴェット・コショワ (1999年没)
- イザベル・ド・ヴァロワ (ブルボン公妃) (1383年没)
- モーリス・ドネー (1945年没)