伝記
マウノ・ヘンリク・コイヴィストは、1923年11月25日にフィンランドのトゥルクで生まれた政治家で、第9代の大統領であり、2度にわたって首相も務めた。大工として造船所に勤める父ユホと、母ヒュムニ・ソフィア・エスコラの次男であった。母は彼が10歳のときに亡くなった。小学校を終えてからいくつかの仕事に就き、1939年に冬戦争が始まると、16歳で野戦の消防隊に加わった。継続戦争では、ラウリ・トルニが率いる、敵の後方で偵察を行う歩兵部隊に配属された。これは志願者から選ばれた者だけが入れる部隊だった。戦争中に自由十字章の第2級を受け、伍長に昇進した。のちに、「自分の命がかかった勝負に加わったあとでは、ほかのどんな勝負も小さい」と振り返っている。
戦後は大工として生計を立て、政治活動に入り、社会民主党に入党した。若いころは、無政府主義やサンディカリスムにも影響を受けた。1948年にトゥルクの港で働き始め、同じ年の12月から1951年まで港の労働事務所の所長を務めた。1949年に、共産党が握る労働組合が社会民主党の少数政権を倒そうとしたとき、組合の指導部は、ハンコの港を「開かれた現場」と宣言して、合法的な側に立つ港湾労働者に集まるよう呼びかけた。コイヴィストはハンコに赴いて港の事務所を任され、ストライキを破る労働者を集めた。共産党系の新聞は彼を、労働組合の主導権を争う主要人物として、最大の敵と位置づけた。働きながら学び、1947年に中級の試験、1949年に大学入学資格の試験に通り、1951年に小学校の教師となった。1952年にテッレルヴォ・カンカーンランタと結婚し、娘アッシが生まれた。トゥルク大学で1953年に修士号を得て、3年後に、トゥルクの造船所の社会関係を扱った博士論文を完成させた。
1957年にヘルシンキ労働者貯蓄銀行に入り、1959年から1968年まで頭取を務めた。1966年の総選挙で社会民主党が勝利し、パーシオ内閣ができると、党の経済政策の専門家として、財務大臣になった。パーシオの指導力に失望した党員が増える中で、後継の首相の有力候補となり、1968年3月22日に首相に就任した。1970年の総選挙で連立の他党が大きく議席を失ったため辞任したが、その後も副首相兼財務大臣を務めた。同じ1968年にフィンランド銀行の総裁にあたる理事会議長となり、1982年までその職にあった。1970年代には、ケッコネン大統領が競争相手と見るようになり、これに対抗して、同じ党のカレヴィ・ソルサを後押しした。1979年の総選挙の後、社会民主党が主導する左派連立内閣を組み、再び首相となって、1982年まで在任した。高齢のケッコネンの健康が衰え、変化の乏しさへの不満が高まる中で、世論調査の評価の高い彼は、次期大統領の有力候補と見られるようになった。
1982年にケッコネンが辞任すると、大統領職を引き継ぎ、フィンランドで初の社会民主党出身の大統領となった。外交では、基本的に前任者の中立外交を引き継いだが、世論と国際情勢の変化とともに、アメリカなど西側諸国に接近した。フィンランドの大統領として初めて日本を公式に訪問した。1988年に再選され、1994年まで在職した。2017年5月12日、以前から患っていたアルツハイマー病により死去した。93歳であった。後のインタビューで、ソ連の影響下にあった1970年代のフィンランドは、最も危険な時代だったと回想している。
同じ年に亡くなった人物
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